お父さんのコーナー

お父さんの紹介
  池端 滋  1942年相倉生まれ
         現在は妻と2人で民宿経営
         52歳まで東京と富山でカメラマンとして生活

●写真展・写真集など(共著含む)
  富山湾  魁百首  五箇山  相倉の四季
  環海  富山の茶室  その他

●つららの坊や (青木志門著  桂書房出版) 発売中1,050円
  冬の相倉を舞台にした童話本です。大人も子供と一緒に楽しめます。
  私が写真を撮影しております。

●21世紀「日本海 写真の旅」と題して毎日新聞富山・石川版に月1回連載中。
  山口県下関から青森県竜飛岬まで日本海沿いをデジタルカメラで捉えた写真と文章の自信作です。

***********************************************

●2012年4月11日版掲載

バス停のような無人駅 青森県・驫木

 人間はいつごろから旅に出るようになったのだろうか。日常を離れて見知らぬ地で新たな発見をしたり、心のリフレッシュなど、旅の楽しみは無限である。神社仏閣巡り、山歩き、最近は道の駅のガイドブックもあるなど、何が目的か分からない旅もある。
 昔から人気の高いものに鉄道がある。私が37、8年前、富山市でカメラ店を営んでいた時、近所に夜行電車で鉄道の旅に夢中だった小学5、6年生の男の子がいた。今は有名なチェロ奏者だが、当時は写真を撮ってはフィルムを店に持ってきたものだ。
 その後、有名なディスカバリージャパンのキャッチフレーズで旅は一気に一般のものになった。鉄道も新幹線を中心に新型車両が導入され、ファンは過熱するばかり。今では女性ファンも増えて「鉄子」という流行語も生まれた。
 秋田県能代市と青森県五所川原市を結ぶJR五能線も人気の高いローカル線だ。日本海や国道101号と平行して北上する沿線には、日本の原風景が広がり、高度成長の恩恵にあずからなかった地方の現実が見え隠れする。沿線には世界自然遺産の白神山地や黄金崎不老不死温泉もある。
 中でも鉄道ファンに有名なのが驫木駅である。4、5坪ほどのバス停のような無人駅で、電車は2〜3時間に1本ほどしか停車しない。次に電車の到着を待つ鉄道ファンは、本当の旅の達人であるとも思う。冬の日本海が荒れ、白波を立てている。



***********************************************

●2012年3月14日版掲載

”ハレ”の様相も変化 石川県・気多大社

 私の写真の旅は、祭りに合わせて日程を組むことはあまりない。日本の祭りも昔は曜日に関係なく行われていたが、近年、観光客を集めることと、当事者の住民や若者が参加しやすいよう土、日曜日に移されたということが多い。社会の流れで中止せざるを得ない伝統ある祭りもあると聞く。
 祭りよりも今の社会に合わせたイベントの方が多くの参加が見込まれ経済効果も高いと、行政も予算を組んで応援するから歴史あるものにますます人が集まらなくなる。
 石川県羽咋市の気多大社は能登の守り神である。歴史ある神社で毎年3月18日から23日まで、羽咋市から七尾市までの往復約300`を六十数人で巡幸する「平国祭おいで祭り」が行われる。祭神・大国主神が昔、邪神を退治し、この地を平和にしたという故事にちなむ。
 私が初めておいで祭りに出掛けたのはもう30年以上前のこと。巡幸の先頭を神馬が先導し、みこしや錦旗、威厳ある宮司らの行列が、村や町に春を告げ、沿道には人々が米やお供え物をもって御巡幸を喜んで迎えていたことが思い出される。旅所の神社ではおもちをまいたり、子どもたちが走り回り、ハレの一日をみんなで共有していた。巡幸に参加していた高校生は、父親もかつて参加したとのことだった。おいで祭りは能登の人々の心そのものであったように思われる。
 それも今では新馬もトラックで運ばれ、人々が春を迎えた喜びの顔を沿道で見ることも少ない。



***********************************************

●2012年2月15日版掲載

弱体化の原因・・・ 新潟県・柏崎市

 日本海の旅は、日本再発見の旅でもある。高度成長と共に日本独自の産業に育ったのが、パチンコ。まだ娯楽の少なかった時代、街角には軍艦マーチが流れ、ドアを押して店内に入れば、チンジャラジャラのパチンコは、若者からじいちゃんばあちゃんまでの娯楽の中心だった。今では考えられないくらい店内はタバコの煙でスモッグ状態だった。
 自販機もいつの間にか都市から村の果てまで広がり、暗闇の中に自販機の光だけが輝いている風景もある。
 コンビニエンスストアは小売業の中でも最も成長した産業だ。小売り全体では百貨店を抜いてトップを走り続ける。店舗数も日本国内だけで4万3000店以上となり、よほどの田舎でない限り見ることができる。
 一部にコンビニがないと生活できないと思い込んでいる者もいて、恐ろしいことだ。昨夏の電力不足の折、パチンコ店と自販機の電気を節約すれば電力不足を簡単に乗り切れると言った首相もいた。
 しかし今、パチンコ店は街中から郊外に移り、不況で閉店に追い込まれ駐車場が草ぼうぼうとなった風景も多い。閉店となったコンビニの空き店舗もよく目にする。
 出来ては消えていく外食産業など、消費社会とはいえ、少子高齢化と共に国を弱体化しているような気がしてさびしい限りだ。これらの現象を写真に撮る者として、社会の記録を次世代に伝えていかねばならないと思うのは、年のせいだろうか。
 写真は海からの風に耐えながらお客を待つ自販機。




***********************************************

●2011年12月14日版掲載

格好の日帰り撮影地 石川県・能登金剛

 私が写真を始めた昭和30年代、日本は豊かな生活を求めて欧米を手本にがむしゃらに働き始めた時代だった。働けばいつかは家が建てられる、毎日お腹いっぱい食べられて、家族旅行にも行きたい。そんな思いが強かったのではないだろうか。娯楽と言えば映画や音楽鑑賞、ハイキング、パチンコも人気の遊びだった。
 家族で旅行に行く家庭もまだ少なくて、旅行と言えば修学旅行、会社の慰安旅行、新婚旅行ぐらいだった。会社では生け花や社交ダンスなどサークル活動が盛んで写真クラブも人気があった。休みになれば、同好の志を集めて撮影行きが大きな楽しみだった。仲間が買ったばかりのマイカーに便乗して、夜明け前の未舗装の砂利道を心うきうきと出かけたものである。
 富山からだと、格好の撮影地が多い能登半島が、日帰りでは一番人気があった。特に、外海に面した千枚田や深浦港、能登金剛などは、アマチュアカメラマンにとっては魅力ある地だった。夏になれば、能登半島全域の地区で毎日キリコの祭りがあり、子どもから年寄りまで総出で楽しむ姿は、カメラの被写体としては最高だった。
 その頃はまだ、白黒写真時代で、撮影から帰るとフィルム現像、プリントと自家暗室の楽しみもあった。今のデジタル、パソコンとは違う別の楽しみ、喜びだった。講師を招いての例会もあり、今より写真の中身は濃かった。今後、デジタルからフィルムに展開していく方向もあっていいのではないか。写真h能登金剛の巌門。最近は人影もまばらで、かつての観光地も寂しい限りだ。




***********************************************

●2011年11月16日版掲載

祭りに残る「品格」 島根県・美保神社

 日本人は祭り好きだ。今の季節、日本列島はさまざまな形の秋祭りでにぎわっている。加えて、近年は行政が地域活性化と称して新しいイベントの開催に力を入れている。
 イベントは伝統的祭りに比べて中身は濃くない。特産品の宣伝をうたい文句に、新鮮な魚や野菜の特売だったり、全国ラーメン祭り、B級グルメ大会など、”食”がメーンの企画が多い。日常的においしいものを食べているはずなのに、イベントとなれば、デパートのバーゲンのように列をなして順番を待っている。もしかすると、おふくろの味としておいしかった家庭料理は日本の食卓から姿を消したのではないかと思うこともある。
 それに比べ日本の伝統的祭りは、その土地に色濃く、強く根付いている。観光客がいなくても、見学者がいなくても問題ではない。エネルギーの爆発あり、神々との交流であり、男女の深い結びつきがあり、形は無限である。
 能登の若者は盆や正月に実家に帰らなくても祭りには必ず帰って来て、日頃のつらいことやストレスを発散して仕事に帰っていくと聞いたこともある。地方に仕事がなく、若者が大都市に行かざるを得ない時代にあって、地方の文化、伝統が生き続けることはせめてもの救いになると言えるのではないか。
 日本には品格という素敵な言葉がある。人々が比較をなくしつつある今、地方の祭りには品格やユーモア、色っぽさを見ることができる。12月3日、島根半島にある美保神社の秋の大祭「諸手船神事」は品格のある一級の祭りである。




***********************************************

●2011年10月12日版掲載

「風景は思想」 島根県・大根島

 風景は思想であると言ったのは、画家の堀文子さんである。現在93歳の堀さんは毎年個展を開く現役の日本画家だ。70歳を過ぎてバブル経済全盛の日本にあきれ、世界を知るにはその国の春夏秋冬を経験しなければと単身数年にわたりフランス、イタリアに住み、その国を、そして日本を見て、考えた。
 堀さんは、ヨーロッパの田舎の風景が、負け戦を経験してもびくともしないのを見て、強靭な魂がこの風景を作っているのだと言う。同様に、堀さん自身も強靭な意志の持ち主で、画壇の外で独自の道を歩んでいる。
 堀さんの言う「風景は思想」は、日本海を旅していると強く納得できる。長い年月を経て消えていくもの、生き残るものとに淘汰され、文化となり歴史となっていくのだろう。そして日本の形が生まれ風景を作っていく。今、日本の地方はどこも人口の減少、少子高齢化に直面している。地方の集落では子どもの声があまり響かない。山はここ数十年炭を焼かなくなり、ナラの木はカシノナガキクイムシの被害で枯れ木となり、見るに耐えない。道路沿いには空き家や閉じた商店が廃墟となっているのが目立つ。人口が減れば田畑は荒れ、日常の生活や祭りが次世代に伝承されない。政治が悪いと責任を押しつけてきたかもしれない。
 写真は島根県中海に浮かぶ大根島。ボタンが有名で小さな社が似つかわしい。近くには幾隻もの廃船が海に浮かんでいて、話題になっている。



***********************************************

●2011年9月14日版掲載

海渡る日本の中古車 富山県・射水市

 十年一昔とはよく言ったもので、21世紀の日本海を取り巻くウラジオストク、ソウル、大連と撮影に出かけていた時、当時の富山県知事は「環日本海」という言葉をよく使っていた。あれから10年余り経ち、今の県のトップからは「環日本海」の言葉はほとんど聞かれない。社会状況が大きく変化したことによるのだろう。
 石油などの天然資源でロシアは豊かになり、中国は国内総生産で日本を抜き(人口が日本の10倍だから驚くことではないが)、韓国は自動車やデジタル産業で日本を追い抜く勢いである。富山県も中国や台湾の富裕層に向け、観光客誘致に全力投球である。
 10年前、ウラジオストク港では、日本の中古車を積んだ大型貨物船の陸揚げ作業光景が連日見られた。街中では「○○幼稚園」「△△魚店」などと横書きされた車がそのまま走っていて日本の町かと錯覚するくらいだった。
 その頃、手荷物として扱われていた車に高い税金がかけられるようになり、中古車の輸出は年々少なくなっている。一時期、富山県射水市の国道8号沿線は、パキスタン人が経営する中古車市場で賑わっていたが、今は寂しい限りだ。それでも岩瀬港や富山新港からは多くの中古車が海を渡る。積み込み作業は、子どもの積み木遊びのようでもある。
 それにしても日本で使い捨てられた車が、隣の国では堂々と街中を走るというのはどういうことなのか。カメラを持って外に出れば、美しい日本の自然や、21世紀の日本もまた見えてくるのではないかと思う。



***********************************************

●2011年8月10日版掲載

続けることが力に 新潟県・上越市

 1カ月近くの間に二つの写真展を見た。名古屋市美術館での「写真家・東松照明全仕事」展と大阪市・国立国際美術館の森山大道「オン・ザ・ロード」展。2人とも日本を代表するカメラマンでありながらスタイルや写真の中身も大きく違う。
 東松照明は戦後の日本にこだわり続け、沖縄や長崎を特に意識している。森山はプロカメラマンでありながら、ほとんど依頼されて写真を撮ることはない。その時代、その年代で感じる土地や都市を撮影の対象としている。そこは新宿であり、ハワイ、ニューヨーク、ブエノスアイレス、北海道、銀座など、森山の独自の目でつながれている。
 森山の撮影スタイルは大半の写真家がそうであるように、高級カメラを三脚にガッチリ構えてのスタイルではない。フィルム時代からコンパクトカメラを用い、今はコンパクトデジカメが中心。目の一部のようにシャッターを押し、デジカメのカメラマンがよくする撮影後、画像を確認することはしない。フィルムからデジタルに変わっても撮影手法は変わらない。写真展の作品は、写真集とか印刷されたものに比べ圧倒的に見る者に訴えてくる。ぜひ写真展に足を運び本物に触れてほしい。
 今回の3人の女の子の撮影地は新潟県の山間地である。写真家、浜谷浩は1940年から10年も通い続けた地で「雪国」「裏日本」の名作を残している。撮り続けることが写真の持つ力になる。私にはまだまだ写真から学ぶものが多い。



***********************************************

●2011年7月19日版掲載

大自然と向き合う 山形県・鶴岡市

 日本列島は、南北に長く、それぞれの地が海とのかかわりで多様な文化を生み出し、育んできた。私のように山深い地に住んでいても、子どものころから生魚は食べられなくても塩物や干物で海の幸を食べることができた。
 山があり川があり、自然と四季に恵まれていたことを再認識させられたのが、今回の東日本大震災。被災地は陸も海も大きな被害を受け、放射能という目に見えない物体は人々に大きな不安を与え、取り返しのつかない傷跡を残すことになった。漁師は仕事にも就けず、夏だというのに子どもたちは海で泳ぐこともできない。被災地の被害は計り知れない。一つ救いがあるとすれば、世界中の人が日本人の目には見えない人間性を評してくれたことである。これから日本を再生していく中で、自然に恵まれた国土と人々の心が、国の芯にはなければならない。
 海沿いを車で走っていると、いけすのような海で小学生の姉と弟が遊んでいる。祖父が浜で食事を作って孫の安全を見守っている。自然は危険が多い。それでも今一度、大自然と向き合って遊びを考え、楽しむことも必要なのではないかと思う。



***********************************************

●2011年6月15日版掲載

地方消滅しないか 富山県・富山市

 旅には乗り物が付き物である。車か電車かバスかいろいろある。出来るなら松尾芭蕉のように歩いて旅するのが理想だが、私の場合はほとんど車である。
 たとえば早朝早く青森県へ出発し、その日の家に到着すると3〜4日かけて海沿いの道を撮影しながら南下してくる。日本海を北上する時、高速道は新潟県の先でいったん切れる。山形県に入れば山形道が、秋田県には秋田道が部分的につながっている。どの高速道も東京に向かっている。仕事で走るのは不便だが、私のような旅人にはこの方がいろいろ変化があって楽しい。その土地、地方の良さも感じることが多くある。
 いつごろからだったか「北陸に新幹線を」と声が上がり、計画はあっても工事着工は遅れた。それでも2014年には金沢ー東京間が開通予定となった。なぜ急いで東京まで行かねばならないか、飛行機があるではないか、いろいろ意見はあった。それでも高度成長のおかげで高速道路は伸び、新幹線は青森から鹿児島までつながったが、これからはそうはいかない。
 それ以上に新幹線が開通することで在来線が整理されようとしている。東京へ行くのは早くなっても大阪方面は金沢乗り換えが増えるだろう。日常生活も不便になるのは困る。地方の魅力もなくなる。日本の地方が消滅していかねばよいが。
 それにしても人生60数年、何と多くの経験と世の中の移り変わりを見てきたことか。こんな時代はもうないだろう。 
 写真は富山市の神通川に架かる新幹線工事現場。

toyama jinzuugawa

***********************************************

●2011年5月25日版掲載

意思伝わる一枚を 青森県・十三湖

 フィルムかデジタルか、白黒かカラーか。写真ファンが集まれば必ずと言っていいほど話題になる。多くの人たちの首から下がっているカメラはデジタルが多く、三脚に高級一眼レフカメラをつけているこだわり人はフィルム派が多い。
 私も8年前まではフィルムが中心でデジタルは別物と考えていた。その後デジタル技術は驚異的に進歩し、携帯電話やデジタルカメラは社会を変えたと言っていい。以前はネガカラー、ポジカラー(印刷用フィルム)、白黒フィルムと3台のカメラを必要としたが、今ではデジカメ1台で用が足りる。
 それでもフィルム派はなんだかんだとデジタルカメラを受け入れない。だが本当に大切なことはフィルムでもデジタルでもいい自分の意思が写真に伝わる強い写真を撮ることだ。白黒から始めてカラー、デジタルに変わっても表現力の強さは欠かせない。
 仕事を離れて写真を撮る時は、その時の気分で機種やフィルムを選ぶことも楽しみの一つである。この「日本海写真の旅」シリーズはデジタルカメラで撮っている。デジタルカラーで撮影し、白黒で出力するが、新聞紙上で最良の効果を出すのは難しい。
 私が写真を始めたころ、写真のほとんどが白黒で、当時のカメラマンから心に残る多くの写真を見る機会に恵まれた。デジタルになってシャッターを安易に押しすぎると言われる。今一度、フィルムであれデジタルであれシャッターを押す瞬間を大切にして、一枚一枚に心を込めて写し撮りたいものだ。写真は青森県の十三湖。

aomori jyuusannko

***********************************************

●2011年4月13日版掲載

自然や歴史 地方で学ぶ 新潟県・出雲崎町

 東日本大震災が発生した2011年3月11日は決して忘れることのない日になった。3月末時点で死者、行方不明者2万8000人以上と発表されていて、今後どうなるかも分からない。
 新潟・中越や能登半島沖地震の何百倍ものエネルギーと、想像を絶する津波、追い打ちをかけるような福島第一原発事故・・・・・・。今まで経験したことのない天災と人災が複雑に絡み合い、復興に向けた見通しすら立たない地域も多い。
 「頑張ってください」「応援していますから」という励ましやわずかばかりの義援金が、今まで築き上げてきた財産や家族を突然失った被災者の力になれるのかどうかも分からない。被災によって平和な暮らしを奪われた人たちのことを思うと、いつまでたっても心が晴れない。
 私たちはこれら一連の出来事から多くのことを学ばなければならない。世はデジタル時代で、ビデオ、カメラ、携帯電話で撮られた映像は一般の人たちのものだった。一瞬の判断で事実を必死に記録し伝えようとする画面は、プロのカメラマンの映像とは違う力があり、我々見る人の目に焼き付いて離れない。
 近ごろテレビから流れる中身のないトークやお笑い番組、政治家の軽さに慣らされていたから、頭をブン殴られた思いだった。
 事故後の対応も人間の手に届かない現実に、ただ右往左往しえちるようにも見える。今度こそ現実を真摯に受け入れ、自然や歴史に学ばなければならない。手本は都会ではなく、日本の豊かな地方、田舎にある。写真は新潟県出雲崎町の小さな漁村。ここから遠くない所に東京電力の柏崎刈羽原子力発電所がある。



***********************************************

●2011年3月9日版掲載

人とウミネコの聖地 島根県出雲市・経島

 私たちは日常、食事をしたりテレビを見たりするのと同じように、神社や寺では手を合わせて頭を下げる。特に結婚や年の初めなど、人生の節目には必ず世話になる。
 日本人は無宗教とか無信仰とか言う人もいるが、欧米のように一神教の国とは違い、八百万
(やおよろず)の神、仏の風土としての歴史がある。明治の初めまでみんな仲良くやってきたのだが、明治初期の神仏分離政策以降、日本人と宗教との関係があいまいになってしまったように思われる。
 それでも現代人は、旅ともなれば全国津々浦々の神仏に会いに行く。旅に神社仏閣は欠かせない。また「聖地」と言われる日常とは異なる場所、心ときめく、あるいは心休まる地へと人々は出かけて行く。
 その代表的な地、神話の国・出雲地方には八百万の神に会いに、日本全国から人々が訪れる。出雲大社から西へ来るまで20分ぐらいの所に、日御碕
(ひのみさき)神社がある。素盞鳴尊(すさのおのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)両神が祀(まつ)られている。
 そこからすぐ先の日本海にデンと大きな岩山が座っている。経島
(ふみしま)と言い、周囲約300bの岩の頂上には小さな社と鳥居が見える。日御碕神社の分社であり、年に一度、宮司が島に渡り、祭り事が行われると聞く。今流にいえば聖地である.経島で有名なのは、日本有数のウミネコの繁殖地として秋から春にかけて五千羽も渡ってくることである。経島は人間にとっても、ウミネコにとっても聖地なのかもしれない。



***********************************************

●2011年2月9日版掲載

雪下ろし 今昔 富山県・五箇山

 私の住む南砺市相倉地区は、日本有数の豪雪地帯である。1月末日の積雪は4b50aぐらいあったが、いつも多いからニュースにもならない。
 それにしても、今年は特に多い。屋根の雪も3回から5回も下ろした家もあり、皆、相当に疲れている。1、2回の雪下ろしなら家の周りの雪も少なく仕事は早い。4、5回ともなれば前の雪を除雪してからでなければならず、5倍も10倍も労力がかかる。
 今年のように1月に入り毎日のように30〜40a以上の雪が降り続くと、たちまち4bを超えてしまう。10年に1度ぐらいの大雪であろう。
 私が子どものころ(50〜60年前)は、毎冬3〜4bの積雪をみた。除雪機械は何もなかったに等しく、スコップと、屋根雪下ろしの際に雪を割るためのコシキ(木の板で長い持ち手がついた道具)だけの時代。12月から4月末ごろまで道路は前面ストップして車も走らなかった。家では冬季間、五箇山和紙の家内製造が営まれていて和紙作りの仕事と外の雪下ろしや雪堀(大量に積もった雪を堀り上げる作業)の仕事で休む暇がなかったことが頭から離れない。
 当時は皆がそうだったから我慢と忍耐で乗り切った。暖房もない時代、靴下も暖かい下着もなく、子どもも大人もみんなみんな本当に強かったのだろう。
 その後の高度成長で多くの人たちが村を離れては行ったが、村も豊かな生活を得て若者も定住するようになっていく。今冬の大雪も、あと1ヶ月もすれば春も来るし、昔のような悲壮感はない。家の前では大型重機がうなり声をあげて人間の何十倍の仕事をこなしている。



***********************************************

●2010年12月15日版掲載

変わりゆく冬の風景 新潟県・柏崎市

 12月にもなれば、雪国は冬支度で忙しい。山沿いでは雪囲いや越冬野菜の漬け込みなど、いつ雪が降ってもいいように準備が急がれる。昔に比べれば、雪が少なくなったとか、温暖化で暖かくなったと言われるが、そうは言っても五箇山ではひと冬に2〜3bの雪は積もる。それでも冬は大変だと言われなくなったのは、除雪への機械力導入で労働時間が減り、精神的負担も少なくなったからだろう。
 田舎でも道路は除雪され、交通の不便はない。家の周りも小型除雪機械やショベルカーなどが人間の何倍も仕事の能率を上げてくれる。それでも、何日も雪が降ると、雪が与えてくれる恵みのことも考えず「雪はもういらない」と人間中心になる。
 私の小学校時代、わらぐつをはいた着物の子どもも裸足の子どももいた。寒くていつも鼻水を流していたし、甘いおやつはないに等しい。それでも苦しかった思い出はない。厳しい冬の自然の中で、早く春が来ることを待ち望んでいた。
 今時の小学生はブランド物の防寒着に身を包み、お互い身を寄せ合いながら登校する。兄弟姉妹で助け合いながらの風景は変わらないが、子どもの数が少なくなっているのは寂しい限りだ。
 戦後の高度成長以前の日本では、自然との共存の中で得た文化や知恵が大きな財産であり、国の根っこの部分だった。今、地方は人口減にあえぎ活気がなくなり、将来のわが国を暗示しているようでもある。大人は次の世代のために本物の日本を伝える必要がある。
 写真は新潟県柏崎市笠島地区の小学生の登校風景。



***********************************************

●2010年11月10日版掲載

豊かな能登の文化 石川県・輪島市

 日本海側の小さな村や集落を旅していると、寂しい場所で数戸の家屋がひっそりとただずんでいたり、海辺の厳しい自然環境の中で集落が形成されていたりして、人間のエネルギーと知恵に驚かされる。激しい競争社会の都会に住む人々のエネルギーにも驚くが、地方に住む人々の日常は自然との共存であり、不便ばかりではない。都会の生活とは質がちがう。
 今や、地方も道路は整備され、テレビやインターネットなどの充実で生活は豊かになり、決して都会に劣らない。そして何より地方には祭りや伝統文化が伝承されている。これほど多種多様な祭りや行事が受け継がれているのは世界でも日本だけだろう。島国であるがゆえに近隣で競い合った結果、似ているようで似ていない形が完成されていったのではなかろうか。
 今、日本は観光立国として外国人の受け入れを増やそうとしている。その中で日本の地方が持つ豊かな自然、優しく勤勉な人々とその知恵、伝統文化は他にまねのできない財産になる。今までは都市が日本を引っ張ってきたが、これからは農漁業も含めて地方が日本をリードしていくという気構えを地方人は持つべきだ。
 能登は地方のすべてがそろっている日本を代表する地域。1年を通して人々は、自然と伝統文化の中で意義深い生活を送っている。先人を敬いつつ。



***********************************************

●2010年10月15日版掲載

万葉線と変わる風景 富山県・射水市

 旧JR富山港線の廃線を受け、富山市は06年4月からライトレールの運行を始めた。愛称ポートラムの電車は駅間を短くしたり、本数も増やすなど、市民に親しまれるよういろいろ工夫されている。富山市の観光の目玉とまではいかないかもしれないが、県外客やレールファンの関心を集めている。
 さらに市内の路面電車にレールを増設して環状線化し、新しい車体を投入してコンパクトなまちづくり、中心市街地の活力復活を狙っている。
 一方、高岡市と射水市を結ぶ万葉線は、ライトレールの先輩ともいえる。万葉線の歴史は古く、1951(昭和26)年、富山市西町から高岡駅前までの運行でスタートした後、新富山発に変更になった。66年には富山新港開港で富山ー堀岡間が切断され、現在の高岡駅ー越ノ潟間の路線で今日に至る。
 名称も射水線から万葉線に変わり、母体も富山地方鉄道、加越能鉄道から第三セクターと時代とともに変化した。
 昭和50年ごろ、私が土地の老人から直接話を聞いて記憶に残っているのは、富山新港が出来るまでは,新湊周辺は日本一の風景だと思って生活していたということだ。「新港ができて風景が変わってしまい、今はさみしいね」と。当時稲を運ぶ笹舟が通る小川が流れ、とねりこ(稲をかけるはさ木)の並木が続き、越ノ潟にある小さな島の神社の祭りに舟に乗って行ったという。
 今、越ノ潟の近くには海王丸パークも整備され、対岸の堀岡とつながる大橋も完成間近。風景は今も変わり続ける。写真は内川を渡る万葉線で、車体は赤くカメラの被写体にも向いている。



***********************************************


●2010年9月15日版掲載

変わらない風景 島根県・出雲大社

 1300年前の奈良時代、出雲国風土記が編さんされた。出雲国とその九郡について、地名の由来や伝承、神社などについて書かれた地誌だ。出雲地方に住む人々の日常生活や言い伝えなど独自の世界が記されている。 
 自然と向き合う祈りの心、旱ばつや大雨、台風など人知の及ばない自然の力に神を感じ、祈る。1300年を経ても今と変わらぬ人々の姿。伝承される祭りや行事は、日本の原風景といわれる出雲ならではだ。
 出雲大社は大国主命を祭神とし縁結びの神社として広く知られる。新暦11月初旬、八百万の神が全国津々浦々から集まってくる。どこのだれとだれを結びつけようかと相談されるのである。八百万の神というから縁結びの神様ばかりではなかろうから、話はすべてうまくまとまるわけでもなさそうだ。現実にこの世は一度結ばれてもその後決して神の思うようには運ばない。
 出雲大社の本殿は、古代神社様式の「大社造り」で、国宝に指定されている。今、3年後の本殿遷座祭にむけて大改修が進んでいる。60年に1度の大行事でご神体は本殿から拝殿に移されている。00年には本殿前の地中から巨大な3本柱が発掘された。直系が1.35b。本殿は今の2倍の48bの高さがあり、巨大な造りであったことがうかがえる。
 写真は神楽殿に掛けられている重さ4.5dの大注連縄(しめなわ)で、形は雲を表している。人々と比べてみれば大きさが分かる。




***********************************************

●2010年8月18日版掲載

キリコと火祭り 石川県・能登島

 今年の夏は梅雨明けと共に極暑に見舞われ、日本列島がうだっている。
 子どものころを思えば、夏はいつもカンカン照りで雨も降らず、毎日汗だくだった。家には冷蔵庫がないから、裏の池にはやかんのまま冷やしたお茶があり、横にはスイカやキュウリが冷えていたのを思い出す。昼ご飯が終わり、裏の戸を開ければ山の風が心地よく、みんなごろっと昼寝をしていた。寝たきりの年寄りもいなくて、みんなとても元気だった。
 能登の夏は天気ばかりでなく、キリコを中心とした夏祭りで燃えている。キリコとは墨文字や武者絵が描かれた縦型のあんどんで、神輿の道中を照らす御神灯のこと。小さいものは4〜5b、大きいもので12bもある。海の安全と豊漁を祈願する祭りで、カネや太鼓の音とともにキリコが闇の世界に浮かぶ様子は威厳があり、幻想的だ。
 かつて漁師は、お盆や正月は船の上にいても、祭りの日にはキリコを担ぎに帰ったと言われ、熱気にあふれていた。今では漁業の縮小や若者の地元離れで昔ほどの熱気はない。それでも祭りのために都会から帰ってきた若者もいて、日常は見せない幸せいっぱいの表情が見られるのも伝統の持つ力といえよう。
 七尾湾に浮かぶ能登島の向田(こうだ)の火祭りは日本三大火祭りの一つ。広場の中ほどに30bもの大たいまつを立て、その周りを神輿、キリコが練り、住民の手たいまつが乱舞する。最後は手たいまつから大たいまつに火が投げ入れられると、炎は天に向かって駆け上がる。大たいまつが倒れる方向で豊作、豊漁を占う。向田の火祭りは7月最終土曜日に行われる。




***********************************************

●2010年7月14日版掲載

植田正治と鬼太郎 鳥取県・境港市

 鳥取県の西端、境港市は島根半島の付け根に位置する。松葉ガニ、マグロ、イカなど水産の町でもある。隠岐諸島へのフェリー発着場や韓国、中国、ロシアとの貿易港としても日本海側を代表する港町である。
 生涯アマチュアを通した写真家、植田正治(1913〜2000)は境港で生まれた。15歳でカメラを持ち、19歳で上京。わずかの修業の後、隣町の米子市で写真館を開いた。中央の雑誌に山陰の風景などを投稿して山陰の植田として名を知られるようになる。中央の作家とも親交を深めながらも決して鳥取を離れようとしなかった。山陰を撮り続けた姿勢はアマチュア精神に徹したともいえる。
 米子の写真館は2階が喫茶店でいつもアマチュアカメラマンのたまり場になり、話がまとまれば撮影行きとなる自由な雰囲気だったようだ。植田の代表作に鳥取砂丘の作品がある。家族や子どもらがモデルで、詩情豊かな日常の幸福感みたいなものが伝わってくる。
 山陰は神話の国として独特の土地の香りがあり、生活する人々、木や川、生き物すべてを植田のカメラはとらえている。それらの作品は植田正治写真美術館(鳥取県伯耆町須村、電話0859・39・8000)に展示されている。
 写真は境港市にある水木しげるロード。同市出身の漫画家、水木しげるさんのおなじみの妖怪たち120体がブロンズ像で観光客を出迎える。鬼太郎や目玉おやじたちの町おこしは大成功で、年間300万人にのぼるらしい。




***********************************************

●2010年6月9日版掲載

津軽三味線の魅力 青森県・五所川原市

 私の好きな音楽は、ジャズ、ファド、津軽三味線。十代から二十代の東京生活では、音楽といえばジャズだった。当時、有名だった音楽雑誌「スイングジャーナル」の専属カメラマンの助手をしていた時期がある。コンサート会場で来日したプレーヤーの演奏にしびれ、休日には銀座、新宿、お茶の水のジャズ喫茶に通っていたことも青春の思い出だ。
 ポルトガルの音楽、ファドのきっかけは思い出せないが、国民的歌手、アマリア・ロドリゲスの歌声を一度聴いたらとりこになってしまった。ほかにも韓国での撮影の旅でアリランを聴く機会がなく、友人にアリランのCDを探してもらって買った。美空ひばり級の歌手が、その地方ごとの歌い方をしていて、歌そのものの歴史を感じることができた。
 津軽三味線といえば高橋竹山。大柄な体に独特の語りと力強い音は民謡ファンならずともひきつけられた。他の民謡の三味線の音とはひと味もふた味も違う東北津軽の風土そのものであった。
 近年、津軽三味線に若い演奏家が登場してテレビなどでも若いエネルギーのギターならぬ三味線で民謡の世界にファンを呼び込んでいる。彼らの音はロックやジャズに通じるものがあるのだろう。民謡の世界から飛び出している。
 五所川原市(旧・北津軽郡金木町)の太宰治記念館の前に津軽三味線会館がある。毎日、全国から修業に来ている若者が観光客相手に腕を磨いている。いつか全国デビューを果たすことを夢見て。



***********************************************

●2010年5月14日版掲載

古き良き時代 今に 島根県・石見銀山遺跡

 法隆寺、姫路城などが日本で最初の世界遺産に登録されて17年。その後、文化、自然遺産は全部で14になった。最初は順調に登録されていたが、世界遺産の総数も800を超え先進国よりもアフリカや未登録の国の遺産登録に向かっているようだ。
 国内では平成19年、登録が延期されるのではと言われていた島根県の「石見銀山遺産とその文化的景観」があっさり登録されて翌年、確実視されていた岩手県の「平泉、浄土思想を基調とする文化的景観」が見送られたまま現在に至っている。
 世界遺産を一番望むのはもちろん地元ではあるが、その次が観光業者であろう。世界遺産登録で一気に観光客が増えるのはマスコミ情報の力が大きいことはもちろんだが、裏で支えているのが観光業者だからだ。登録と同時に世界遺産の名前だけで多くのツアー客を送り込んでくる。
 国や県は登録までは積極的に力を貸すが、登録されれば遺産の保護よりは観光優先となる。特に最近は格安ツアーが中心で、金も使わない質より量の観光になった気配である。 
 私の旅の行き先は、ほとんどツアー客はいない、静かで文化や自然の中に生きている所ばかりだ。写真を撮る撮らないは別にして、自分の眼で豊かな日本を見つけることが旅の楽しみではないかと思っている。
 世界遺産・石見銀山の銀鉱石の積み出し港としてにぎわった沖泊(おきどまり)のすぐ近くに温泉津(ゆのつ)温泉がある。古き良き時代を今に伝える町並みは静かで風情あるたたずまいだ。




***********************************************

●2010年4月14日版掲載


簡単に出合えない 番外編・富士山

 今月は番外編で富士山を取り上げる。日本で一番写真に撮られ、大人から子どもまで絵が描ける。それだけ身近な山、富士山に3月初め、山梨県の富士五湖側から見てきた。
 地元の人の話では今年は例年より天気が悪く、なかなか顔を出さないらしい。その時も初日は残念ながら厚い雲に覆われて見えなかった。それでは、と山中湖にある個人の写真ギャラリーを見に行った。本人は地元のアマチュアカメラマンと富士山の話で盛り上がっており、仲間に入れてもらった。
 若いときはアメリカで肖像中心のカメラマンをしていて、オーソン・ウェルズやマイケル・ジャクソンなど多くのスターを写していたとのこと。帰国後富士山に魅了され、ギャラリーまで開いたという彼の人生を、四季の富士山の写真を背に聞いた。
 次に河口湖美術館で全国から募集した富士山の写真を見に行く。新聞紙見開き大のカラー写真が100点。美しすぎる。
 そして富士山といえばこの人、岡田紅陽写真美術館へ向かった。白黒写真の圧倒的な力はカラーでは味わえない。さすが富士山の第一人者。写真からは山の偉大さ、その時代の日本の風土や風景、多くの物が語りかけてくる。写真はこうでなくちゃ、と先人に頭が下がる。
 2日目の午後、雲の切れ間から雪を頂いた富士山が顔を出した。簡単に合えないからこそ、より強さを感じられるのも魅力の一つだろう。
 写真は河口湖美術館近くから見た富士山。




***********************************************

●2010年3月10日版掲載

海は神秘な世界 秋田県男鹿市

 旅の楽しみの一つに水族館めぐりがある。山生まれの私が初めて海を見たのは中学1年生の時。林間学校で海水浴に出かけた時だった。当時、米が自由に手に入らない時代で、米を持参したのを覚えているが、海の印象は大波に乗り楽しかったことぐらいしか記憶にない。
 その後、特別に海を意識してきたわけではないが、昭和50年頃、最初の写真展のテーマが「富山新港」だったりで、海に心動かされるものがあるのだろう。
 1日たりとも空を見上げない日はないから、地上の出来事や四季の移り変わりは何となく分かっている気でいる。それに比べて海の中の世界は見たこともなければ、これからも自分の目で見ることはまずないだろう。
 水中カメラマンの写真は、海の生物の世界がきれいに写されているが、現実はすごいドラマが毎日繰りかえられているのだろう。一方、水族館の水槽の世界は誠に平和で争いごとはほとんどない。現実の海中の世界とは違うものだ。それでも水族館には年々大型の水槽が現れて、何万匹もの大小の魚が悠然と泳ぐ姿を売り物にしていて、見ていると時間がたつのも忘れる。
 小さな水槽に黙々と上下している「タツノオトシゴ」とかクラゲを見ていると、海中の神秘な世界、人間が侵すことのできない世界があるように思う。気候変動が叫ばれている今、これ以上地球を汚さないことを切に感じることである。
 写真は「男鹿水族館GAO」で。



***********************************************

●2010年2月10日版掲載

「何、これ」建造物 秋田市立体育館

 旅の途中、時々オヤと思うものに出合う。今まで見たこともないもの、その土地になじまないもの、何でこんなものが、と思わせる出合いは、旅の面白いところであり、考えさせられる点でもある。
 変わらないでほしいもの、変わらねばならぬもの、変わってほしいものなど、人それぞれ思いは違う。地方といえども何も変わらないままでは進歩はないが、よそ者がとやかく言うものではないとも思っている。
 国道7号を秋田市内に車を走らせていると、建物の間に異様な物体が見え隠れする。車で近づくにつれ、大きな物体が正体を現すと「何、これ」と思わず叫んでしまう。聞けば秋田市立体育館という。今まで目にしてきた交響の体育館のイメージとは違い、並外れて大きく独創的だ。
 1994年の完成とあるから、日本がまだ豊かだった時代の産物と言えよう。私には理解できないが、目の前に存在するということは多くの市民の支持を得た証拠だろう。
 今までも宗教団体の建造物が話題になったことがある。しかし宗教団体と公共の建物とは本質的に目的は大きな違いがある。あのころは国も地方も金があったから建ったというのではさみしい。
 日本海を旅しているとカメラを向けたい時も、その逆もある。現実に目の前の光景が21世紀の今を表しているものなら、シャッターを押したくなくても、押すことにしている。
 この写真は現在を写してはいるが、時がたてば別の面を発見させてくれるだろう。



***********************************************

●2009年12月9日版掲載

町全体が城のよう 島根県出雲市

 私が写真を職業としていたころ、カメラと言えばフィルムの時代だった。それから15年。プロの仕事の大部分がデジタルカメラにより記録されている。フィルムにこだわっているプロの人たちはほんの少数になった。
 一方アマチュアの世界では、ベテランやコンテストにこだわっている人たちにフィルムにこだわり派も少なくない。そんな人たちはフィルムの表現がいかに優れているか、デジタルはまだまだ遠く及ばないと主張する。面白いのは、フィルムにこだわっている人たちのほとんどはデジタルを経験していない。
 フィルムの表現は百数十年をかけて完成したのに対し、デジタル技術は電気製品の進歩に伴い急速に発展し、現代社会に欠かせないものになった。その技術がカメラに応用され使用者が追いつかない速さで進んでいる。
 フィルム表現とデジタル画像の表現はそれぞれ異なるもので、特徴や良さは比較できるものではない。それぞれの良さを見つけて楽しむものだと思う。
 私は6年前にフィルムで個展を開いた。現在デジタルカメラだけで日本海写真の旅を続けている。年末に「日本海、写真の旅ー竜飛岬から下関まで」の写真展を開く。インクジェットプリントは初めてだ。フィルム派もデジタル派も写真展の感想を聞かせてほしい。今から楽しみだ。
 写真は島根半島・出雲市小伊津町。日本海に面して200軒ほどの家が建っている。上から見ると町全体がお城のように見える美しい景観だ。

池端滋「日本海、写真の旅ー竜飛岬から下関まで」展は12月17日(木)〜21日(月)、富山市新総曲輪の県民会館2階ギャラリーBで開催。開場は午前9時(初日は正午から)〜午後6時。ここ5年間に撮りためた作品の中から約200点を展示。入場無料。




***********************************************

●2009年11月11日版掲載

土地代表する鮭 新潟県・村上市

 新潟県北部に位置する村上市は、山、川、海と自然環境に恵まれた地で、かつての城下町である。
 今から約230年前、三面(みおもて)川の鮭(さけ)漁が年々不漁になり、深刻な問題をもたらしていた。時の村上藩士、青砥武平次(あおとぶへいじ)は「鮭は生まれた川に帰るのではないか」と考え、三面川を鮭の産卵に適した川に変えようと大工事を行う。前例のない試みは30年にも及び、見事に鮭の増殖事業に成功するのである。
 この歴史的成功で、村上市では鮭を「土地を代表する魚」という意味で「イヨボヤ」と呼ぶようになる。鮭料理は武家や町人により工夫伝承され、今では百種類以上にものぼる。村上の鮭の値段は、日本の鮭の価格を決めるともいわれる。
 また村上市は「むらかみ町屋再生プロジェクト」と称して町屋の再生と景観を整えることで町の活気を取り戻そうとしている。この市民運動が数年前にスタートし、成果を上げて全国に名前を知られるようになった。9月の屏風祭り、3月の人形さま巡りなどの町屋巡りは多くの観光客を集め、今では年間30万人にもなるという。地方の町がさびれる中で、立派としかいいようがない。
 村上の鮭は頭を下に、腹は一部を残して開き、鮭に切腹させない伝統的な製法で知られている。鮭がつるされた撮影は「味匠 きっ川」(きは七が3つの漢字)で許可を得た。フラッシュ無しで、デジカメの利点のASA感度をめいっぱい上げて雰囲気のある写真を撮ることを心がけたい。




***********************************************

●2009年10月14日版掲載

刻々と変化する光 福井県・若狭町

 山育ちの私は海に強くひかれる。その数ある魅力の中でも、複雑に入り組んだ海岸線は、自然の造り出した最大の美だと思う。残念なことに富山湾の海岸の造形は変化が少なく単調だ。
 早朝、太陽が昇ると光は地上すべてのものに命を与えるがごとく輝きを放つ。刻々と変化する光は、生き物のさまざまな顔を映し出し、雑草までもが自己主張する。夕景の光も一日の終わりにふさわしく静かで、厳かだ。
 夜景の写真を撮るならば陽が落ちて暗くなるまでのほんの一瞬がチャンスだ。自然の光と人間の作り出した人工の光が交差するわずかな時間、4,5分しかない。写真を撮る者は朝と夕が一番大切な時間と思った方がいい。撮影に出かける朝は日の出ごろ着くように時間を逆算して家を出る。夜中の2時とか3時、子どもの遠足と同じで早く目が覚めて眠れないものだ。
 福井県の若狭の海は国定公園に指定されている。日本海に突き出た半島に小さな無数の湾が変化をつける。車で走っていると迷路に迷い込んだようで、方向を見失ってしまう。元の場所に戻ってしまい、苦笑いしたこともある。
 この時も三方五湖の周辺を走っているつもりが美浜町の海岸に出てしまった。夕方の海岸には人影もなく、と思ったのに若い2人の女の子がギターを練習している。話しかけたら気さくに話してくれる。今時の若い2人は写真にも興味があり、撮影を忘れるぐらい盛り上がり楽しい時間を過ごした。



***********************************************

●2009年9月9日版掲載

小島が愛した北の自然 青森県・つがる市

 昭和30年代、青森県津軽地方を撮り、多くの写真を残した写真家に小島一郎(1924〜64)がいる。津軽地方をライフワークとして作品を発表しながらも39歳の若さで亡くなった。
 昭和21年の春、敗戦兵として中国大陸から故郷の青森へ帰ってくる。戦災で焦土と化した故郷で、目に入るものは焼けた木の奇異な形と点在する焼トタンの小屋ばかり、と当時語っている。
 大家族のため、津軽地方の戦友を訪ねて食料の買い出しに出かけることになる。その後カメラを手にした小島は、津軽の美しく澄んだ空、岩木山の北に広がる果てしなき大地の姿を、とりつかれたようにカメラに収めてゆく。
 小島はリアリズム写真が叫ばれる中で、造形美を追求した写真を求めて写し続けている。小島の写真には、農民、子ども、集落、馬、農機具、お地蔵さんなど、津軽の日常が写っている。厳しい自然と生活の中で、山々や光が作り出す大地の中に、人々を生き生きと登場させていて、北の暗さはない。
 十三湖から「つがる市」を通る県道12号を岩木山を正面に見て車を走らす。ほとんど人影もなく、すれ違う車も少ない。9月というのに秋の気配も強く、肌寒く感じる。3人の家族が畑で精を出している。スイカが所々で転がっている。今年の収穫も終わり、来年のための後かたづけであろう。冬になれば、地吹雪で景色も一変するだろう。小島が好んだ厳しくも美しい冬ももうすぐだ。



***********************************************

●2009年8月13日版掲載

遠くに動く赤い帽子 島根県・出雲市

 「どういう写真を撮られていますか」と、よく聞かれる。自身の写真の傾向を他人に話すことは難しい。地方にいて写真の仕事をしていれば、これが得意、これが好き、と言っていれば仕事の依頼は少なくなる。それでも相手(発注先)からすれば、あいつはこの分野が得意で、アレが下手と知らぬ間にレッテルが張られている。本人も力の入る仕事とそうでもない仕事が区別されてくる。年月が得意、不得意を作っていく。
 私の20〜30歳代のころ、カメラを持って出かけた先には、老人や仕事に熱中している人たちが写っている。あの頃の人生を生き抜いた顔は、今の同じ年代に比べて、人間としてはるかに深みがあり魅力的だったと思う。それは町行く人たちでも、畑仕事をする人、職人さん、飲み屋のおじさん、作家と言われる人たちにも通じる。
 日本海写真の旅は、21世紀の日本海に住む人たちと自然とのかかわりを自分の眼で確認し、高度経済成長後の日本をカメラに収めることだ。車で走っていても、目にとまるもの、通り過ぎていくものそれぞれで、しばらくして引き返し、カメラを構えることもある。この感じは言葉では言い表せない直感だ。
 遠くに小さな赤い帽子が幾つも動いている。近づくと幼稚園児が田んぼに案山子(かかし)を立てている。都会の子どもたちには経験できない自然とのかかわり。園長さんの許可も得た。子どもたちの声が聞こえてきそうな写真が撮れたらいいな、とシャッターを押した。



***********************************************

●2009年7月15日版掲載

海に浮かぶ家並み 京都府・伊根町

 私の住む富山・五箇山から丹後半島・伊根町の伊根湾舟屋の里まで約350`ある。北陸自動車道を敦賀で降り、小浜、舞鶴、天橋立、伊根と一般国道を走ることになる。日本の高速道は太平洋側は一本で結ばれているが、日本海側はとぎれとぎれで一般国道を走るから旅を楽しむにはこの方がいい。その分、今の高速道路割引、特にどこまで行っても1000円という恩恵は受けられないが。
 伊根湾をグルッと囲んで建つ舟屋は約350軒もあり、ほかの地では見られない景観である。この地区は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、文化財法で保護されている。
 伊根湾は天然の良港と言われ、古くは湾に追い込んだ鯨を銛(もり)一本で仕留めた時代もある。今は定置網で捕れるブリが日本三大ブリに数えられている。
 それにしても海面すれすれに建つ家は、満潮や台風の時には大丈夫なのかと他人事ながら心配になる。1階は舟の格納庫で、2階が居住スペース。1階の一部は海の中と言ってもいい。対岸から見れば、海に家並みが浮いているように見える。今、全国的に町並み保存が叫ばれているが、舟屋の美しい風景を見ていると、そこに生活している人々が50年後まで今の形を伝えていくのは大変だろうと心配になる。
 自然と一体となった家並みを撮影するには、朝晩の光をうまく取り入れることが写真を生き生きとさせる。舟屋の2階を民宿として開放している家もあり、海辺での一夜もいいだろう。しかし、この地は生活の場。住民のプライバシーには十分に気を遣うことである。



***********************************************

●2009年6月10日版掲載

日本最古の土俵 石川県・羽咋市

 昭和20年代の私の小学校分校時代。暗くて狭い校舎は、はなたれ小学生の元気な声が響いていた。夏はソフトボール、冬はドッジボールか相撲が体育のお決まりコースだった。お盆には村で一番大きな集落の境内に土俵が建造された。個人や地区対抗の戦いが繰り広げられ、娯楽の少ない時代、境内は村人の応援で盛り上がった。今ではあのような熱い風景はどこにも見あたらない。
 当時ラジオから流れて来るのは相撲の実況放送だけで、栃錦や若乃花、朝潮といったスーパースターに、こたつに入りながら声援を送ったものだ。
 54代横綱、輪島は能登・七尾市石崎の出身。学生相撲出身の初の横綱で、言動や生活は相撲界の常識からはみ出るもので、当時マスコミをにぎわしたものだった。輪島は金沢高校から日大に進んだが、金沢高校時代に相撲を取ったであろうと思うのが、羽咋市の唐戸山神事相撲である。
 唐戸山神事相撲場は、日本で最古の約2000年の歴史がある土俵といわれ、神事相撲は水なし、塩なし、待ったなしのルールで毎年9月25日に行われる。加賀、越中、能登の若者が参加して、心技体を競い合う行事は現在も続いている。
 相撲場の隅に小さな木造の建物がある。そこに一枚の大きな白黒の写真が飾ってある。すり鉢状の相撲場には何千人もの人たちが土俵を見つめ囲んでいる。一枚の白黒写真からは時を超えて多くの物語を伝えてくれる。写真の持つ力だろう。



***********************************************

●2009年5月22日版掲載

日常とかけ離れた地 青森県・五所川原市

 子どものころ、隣家の薄暗い座敷で、地獄絵図の掛け軸を見たことがある。閻魔大王や赤鬼、血の池地獄などがおどろおどろしく描かれていて、子どもにとっては十分に強いショックを受けた。
 その後、下北半島の恐山の話を耳にした。その地が霊場で死者の声を聞くことができるとなると、子どもの時の地獄絵図につながるようで興味がわき、一度は訪ねてみたいと思ってはいるが、いまだに果たされていない。
 今度の旅は青森県津軽半島にある、太宰治の生誕地、金木町(現・五所川原市)の「川倉賽さいの川原地蔵尊」の地。恐山ほど知名度も規模も小さいが、死者に会いに、縁者が全国から集まるのは同じである。
 3月の晴れた強い風が吹く寒い日、こぢんまりしたお堂や周囲の林の中にある小さな祠ほこらの周囲にも残雪がところどころに見える。祠の中には数体の地蔵が色とりどりの前掛けをして陽を浴びている。お堂の中にも多くの地蔵が並ぶが、ここにもシーズンオフがあるのか、扉を閉ざし人影も見えない。
 プラスチック製の風車がカラカラと時を刻んでいる。暖かくなれば、多くの人々が亡くなった肉親や友人に会いに訪れ、にぎわうだろう。日常とはあまりにもかけ離れた地だとは思うが、人間の命が軽く見られる今の世、子どもも大人も一度この地に足を運んでみてはどうだろう。賽の川原地蔵尊は、テレビやケイタイの文化とは正反対の所にある。




***********************************************

●2009年4月15日版掲載

漁村に日本の原風景 島根県・出雲市

 民俗学者、宮本常一(1907〜81)。瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島に生まれ、地球4週分に当たる約10万`の足跡を日本列島に残している。
 旅に暮らした日々は4000日以上。驚くことに旅で撮影した写真は10万点以上に及ぶ。今のデジタル時代と違い、36枚フィルムで換算すると約2800本とものすごい量である。
 宮本は若い人たちに言っている。「ハッと思ったら撮れ。オヤッと思ったら撮れ」と。宮本が撮っているのは芸術写真でもなければ証拠写真でもない。海岸の漂流物だったり、洗濯物であったり、普通は目を向けないものだ。何の変哲もない風景の中に時代が見えるとシャッターを押し続けた。
 私がカメラの仕事を選んだのも旅をしたかったからだと思う。一人旅や家族旅行、先輩や友人と多くの旅を経験してきた。それより人生そのものが旅の連続だったような気がする。その中でどれだけシャッターを押してきたのだろうか。シャッターは自信がないと押せない。私はまだまだシャッターを押す回数が少ない。宮本が10万回もシャッターを押し続けたのは、社会を見る目の力、意志があってのことだ。
 日本海に面した島根半島にある塩津は、わずかの土地を活用しながら漁村を形作っている。晴れた日の漁港には人影も見えない。漁船が青い海面に気持ちよさそうに浮いている姿は楽園のようだ。ここには日本の原風景がある。




***********************************************

●2009年3月11日版掲載

雛も北前船に乗って 山形県・酒田市

 私にとっての東北の玄関は山形県酒田市になろう。“写真の鬼”と呼ばれた土門拳記念館があるからだ。秋田県や青森県に向かうにしても、一度は記念館に寄る。土門が撮影した仏像は静かな中で語りかけてくる。身が引き締まる。
 酒田市は最上川河口を中心に日本海航路が開かれ、北前船の拠点として繁栄と富をもたらす。中心となったのが日本一の大地主と謳われた本間家だ。元禄2(1689)年に初代が新潟屋を開業、三代光丘が千石船で商いを始め富を築いていく中で、農業振興や土地改良、水利事業など今で言う公共事業に努め、地域の発展に尽くす。地域貢献が認められ、藩主酒井家の信望を得、商人でありながら武士の身分を許されたのである。
 市内にある「本間家旧本邸」は当時の繁栄を今に伝えるものだ。三代光丘が本陣宿として1868年に新築し藩主酒井家に献上、後に拝領した。二千石旗本の格式を持つ長屋門構えの武家屋敷造りで、内部は商屋造りにもなっている。一つの建物に二つの建築様式を併せ持つのは全国的にも珍しいという。
 3月には「酒田雛街道」(4月上旬まで開催)として市内各地でお雛様が公開されている。北前船で京都から運ばれて来たものもあり、豪華で風格がある。
 日本海を旅して思うことは、明治以前の日本文化の豊かさだ。私たちは今、次世代に何を残すことが出来るのか、考えなければならないだろう。




***********************************************

●2009年2月11日版掲載

烈風に耐え「春」を待つ 石川県・輪島市

 海岸の防波堤に立っていると、海からの風で体が飛ばされそうになる。両足で踏ん張って立っていようとしても大変だ。こういう強い風が数日吹き続くことも珍しくないらしい。
 ここは能登半島の中ほど、輪島市中心部から西へ約15`の上大沢地区。小さな川を挟んで集落がある。家が何軒ぐらいあるのかは、見た目には分からない。集落の外側は間垣(まがき)と呼ばれる高さ3〜4bの竹で囲まれていて、中がよく見えないからだ。
 数ヵ所に内と外をつなぐ入り口がある。内と外は別世界のようであり、寒いから人影もなく様子が分からない。家々は狭い道で結ばれていて、家々のつながり、人々のつながりがどこよりも強いように思える。都市社会では見ることのない風景だ。どれだけの人々がここで生まれ、外の社会へ旅立っていったのだろうか。若者がここから巣立ち、再び戻って来ることもあるのだろうか。そんなことを思う。
 地方は少子高齢化で活気をなくしつつある。限界集落と言う聞き慣れない言葉も耳にする。しかし今の日本で、都市が良くて地方が住みにくいということはない。地方から見れば都市が急激に悪化しているのが分かる。これからは地方の役割も重要になるだろう。
 ここ上大沢地区の強い風ももう少しすれば止むだろうし、春になれば心地よい浜風も吹くだろう。間垣も夏になれば日よけにもなる。人間我慢すること、耐えることも大事。その先には明るい話も生まれることだろう。



***********************************************

●2008年12月10日版掲載

 浜はハタハタ一色 秋田県・北浦港

 島国の日本は四方を海に囲まれ、魚をよく食べる。私のように山育ちは子どものころ、新鮮な魚を食べる機会はほとんどなく、魚といえば乾き物か塩物が中心で、ニシンの麹漬けや塩ザケなどが一番の思い出である。今とは違い交通の便も悪く、保存方法もない当時としては普通のことだった。
 日本列島は南北に長いから、土地それぞれに取れる魚も種類も多く、特徴がある。南はフグに始まり、カニ、ブリ、ハタハタなどうまい魚が多く、特にこれからの季節は楽しみである。魚は体に優しく健康にも良いから、私のように年を重ねると、ありがたい。
 早朝の定置網漁に同行させてもらったり、魚市場や出港風景など、魚や海に関する撮影は、自然相手の仕事だからその都度条件も違い、こちらの思うようにはならない。自分の視点がしっかりしていないと、相手に振り回されて思うように撮れない。相手を見ることが始まりで、動きが見えてくるようになれば、カメラをのぞくことになる。市場などは仕事の邪魔にならないよう、時には許可を取ることも必要だ。あくまでカメラマンは部外者だから。
 秋田のホテルで、今がハタハタ漁の最盛期で浜は活気づいていると聞いた。早朝ホテルを出発し、男鹿半島の北の付け根、北浦港に向かう。小さな漁港ではハタハタ一色。それ以外のものは見当たらない。青いシートにものすごい量のハタハタ。撮影のポイントがなかなか決まらない。まずは大量のハタハタのアップの撮影から始めた。
ハタハタ

***********************************************

●2008年11月12日版掲載

 土門拳 執念の現場 鳥取県・三佛寺


  開山1300年を迎えた三徳山三佛寺は、鳥取市から南西へ約1時間の三朝町にある。近くに三朝温泉や倉吉市がある。
 三佛寺を知ったのは、30年前にもなろうか。写真家、土門拳が病気で1度倒れてから三佛寺の奥の院、国宝・投入堂を撮影した話を聞いた時だった。当時土門は半身不随で車いすの生活だった。投入堂へは、助手が背中におぶさって山に登り、シャッターは自分で押せずレリーズ(シャッターをカメラから離して開放させる道具)を手にひもで巻き付けての撮影だった。
 重い病を持ちながらの命がけの撮影は何だったのかを知りたくて、土門の執念の現場をいつかは見たいと思っていた。そこで島根半島の旅の帰りに、投入堂の撮影を決行することにした。
 お寺の参拝と撮影のため、いろいろ調べていると、気合を入れて登らないと事故になりかねないと思った。
 県道脇の駐車場に車を止め、宿坊が並ぶ石段を登ると本堂が迎えてくれる。本堂の裏に登山事務所がある。ここから先の投入堂までは勝手に入れない。入山許可が必要だ。2人以上で登ること、山登りに適した靴か、などのチェックを受けて入山が許可される。
 標高差200bとはいえ、往復1時間半ほどの道のりはうわさ通り険しい。修験者の修行の地であることを思い知らされる。観音堂を過ぎるとようやく投入堂が姿を現す。登山者も45度くらいの傾斜の一枚岩の上で岩にしがみついての参拝となる。巨大な岩に抱かれた投入堂は実に不思議な姿で表現の言葉がない。1300年の年月と人間が持つ計り知れない何かに驚き、現代社会との違いを感じた。

三佛寺 投入堂


***********************************************

2008年2月13日版掲載

 歴史ある港 今はひっそりと 石川・福浦港

  昭和30年、40年代の写真の世界は、白黒写真が中心で、風土や風俗を中心にプロ、アマ問わず土くさい写真が主流をなしていた。そのころ、日本を代表する写真家、木村伊兵衛が「秋田」を、濱谷浩が「日本海」をテーマに発表。「裏日本」と言われていた日本海側の農漁村の自然と厳しい生活環境が、グラフ誌や週刊誌の写真を通して、都市でも知ることができるようになった。
  当時、アマチュアカメラマンは会社の写真クラブや町の写真やさんが主宰するクラブを中心に活動していた。現代のように手軽にカメラを買えるわけでもなく、望遠レンズやズームレンズも無い時代。カメラ一台、レンズ一本、フィルムも節約して写したものである。家に帰れば、急ごしらえの暗室で引き伸ばし機と格闘しながら写真と取り組んだ。今にして思えば写真の世界が一番楽しくて夢のある時代だったと思われる。
  北陸では特に、能登地方の風土や祭りが、カメラマンの願ってもない被写体で、多くの素晴らしい写真が生まれた。写真の撮影地は石川県富来町(現・志賀町)の福浦港。1300年前から中国・渤海国と交流があった歴史ある港で、今はひっそりとしている。30、40年前の写真と比べても大して変わりなく、人影、船の姿も少なく、悪くいえば活力が感じられない。今の日本の地方からエネルギーが感じられなくなるのは寂しい限りである。


***********************************************

 ●2007年12月12日版に掲載。

 荒波にもまれた絶景 山口県・角島

 下関から国道191号を北上し、50`ほどを過ぎると国道435号が右手に見えてくる。そのまま数`北上すると角島方面行きのサインが出て、そのまま海沿いに走ると沖に一直線に伸びる角島大橋が見えてくる。2車線ながら左右に海を眼下に見下ろしての走行は少し風でもあれば危険を感じるぐらいである。
 角島は奥に深く、周囲が17`もある大きな島。周囲は日本海の荒波にもまれた絶景が続く。磯釣りのメッカでもあり1年を通じてファンが訪れている。
 島の中央を4、5分も走れば先端の灯台に着く。近くにはレストランや特産品の店もあり、夏には海水浴客もたくさん訪れる観光の島でもある。
 灯台の歴史も古く、明治9(1876)年、英国人のブラントンの設計。御影石を使い美しい灯台である。灯台の周りには「つのしま自然館」やハマユウの群生地もあり、自然と触れ合える土地だ。
 灯台から100bぐらい離れた所に、下半分が土に埋まった形で鳥居が立っている。見渡しても近くに神社の影も見えず、一見オブジェのようでもある。鳥居の風景は日本独特のもので、お寺の山門と共に日本人には欠かせないものだ。
 以前、津軽半島にも海岸にポツンと立つ木製の鳥居があった。周りには人家も神社も見えない。聞いたところによると、海岸から少し離れた森の中にある神社に海から舟でお参りに来る人たちのために、神社の目印として立っているのだという。日本文化の奥深さを感じる。


***********************************************