お父さんのコーナー

お父さんの紹介
  池端 滋  1942年相倉生まれ
         現在は妻と2人で民宿経営
         52歳まで東京と富山でカメラマンとして生活

●写真展・写真集など(共著含む)
  富山湾  魁百首  五箇山  相倉の四季
  環海  富山の茶室  その他

●つららの坊や (青木志門著  桂書房出版) 発売中1,050円
  冬の相倉を舞台にした童話本です。大人も子供と一緒に楽しめます。
  私が写真を撮影しております。

●21世紀「日本海 写真の旅」と題して毎日新聞富山・石川版に月1回連載中。
  山口県下関から青森県竜飛岬まで日本海沿いをデジタルカメラで捉えた写真と文章の自信作です。

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●2013年12月11日版掲載

湾は「天然いけす」 富山県・氷見市

 今年もあとわずか。12月ともなれば冬支度から新年の準備と何かと忙しい。今年も天候不順で災害の多い年となった。台風や竜巻、大雨など日本全国どこでも発生しているのがここ数年の怖い点である。
 北陸の12月も晴れ、雨、雪、雷と日替わりの天候が続く。雷と言えば「ブリ起こし」。富山湾の寒ブリのシーズンも始まった。今年は11月から好調が続き、豊漁が期待されている。
 約25年前、定置網漁の船に乗る機会を得た。石川県と富山県の境にある定置網業者で、30人ほどの男たちが4,5隻の船で漁場に向かう。午前4時ごろで周りは真っ暗。わずかばかりのライトの明かりで、手際よく海上で作業が進む。
 1,2bの波でも初めての船上ではバランスを取るのが精いっぱい。定置網の位置が狭められ巻き上げられると、威勢のいいブリが海面でピチピチ、バチャバチャと騒々しい。当時カメラはフィルム時代。高感度のフィルムを使ってはいてもライトは暗く、夜の海では早いシャッターは押せない。船は動く、足場は悪い、仕事の邪魔はできない。そんな条件の中でシャッターを押すしかない。3日連続で船に乗せてもらい、なんとか満足のいく写真を撮影することができた。
 今だったらデジタルで感度も自由にコントロールでき、おまけに画像を確認しながら撮影できる。時代の進歩に感謝しなければならない。富山湾はブリばかりでなく、多くの魚が回遊してくる天然のいけす。これからは魚が美味しい季節。国民の魚ばなれ防止に富山湾の魚たちが一役買うことを願う。



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●2013年11月13日版掲載

断崖上に世界百選 島根県・地蔵崎灯台

 出雲は神々の住める国である。旧暦の10月はふつう、神無月と言うが、出雲では神在月と呼ばれている。全国の八百万の神が年に一度出雲大社に集まり会議を持つ。日本中の上出出雲は大変混雑することだろう。話し合いでは、日本中の男女の縁結びについても話題に上るそうで、出雲大社は縁結びの神様とも呼ばれている。
 全国の神々が最初に集まる場所が稲佐の浜で、宮司や地元の人たちに迎えられる。大社まで「神々の道」を通り、用意された社でしばらく滞在する。宿泊のための社には、神在月の間だけ戸が開かれているという。
 出雲では古代から神話と歴史が入り交じりながら現代がある。古代の出雲大社は33丈(約96b)の高さがあったと伝えられている。近年、古代社の土台と目される巨木が発見され、言い伝えが現実味を帯びてきた。
 出雲大社は祭神(大国主大神)「だいこく様」と、半島の東端の美保神社は「えびす様」とそれぞれ呼ばれ、全国3000社余ある「大黒様」「恵比寿様」の総本社でもある。美保神社は出雲大社に比べて参拝者も少なく静かなたたずまいだ。春の「青柴垣神事」、初冬の「諸手船神事」も国護り神話に基づくもので、氏子が神の代わりとなり国護りを再現している。
 神社から歩いてすぐのところに地蔵崎灯台がある。世界の歴史的灯台百選に選定され、断崖の上に立っている。同じ場所に鳥居がある。鳥居の先には日本海が広がる。海上は「沖の御前地の御前」と呼ばれ、美保神社の祭神「事代主神」(えびす様)が鯛を釣り上げた場所とされている。まっこと出雲は神話と今とを結ぶ地である。



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●2013年10月9日板掲載

豊かな自然に活路を 山口県・角島大橋

 2020年東京オリンピック開催が決まった。前回(1964年)の東京オリンピックの時、私は22歳。東京の写真スタジオに勤めていた。
 ”東洋の魔女”と恐れられた日本の女子バレーチームが、世界を相手に戦うさまを小さな白黒テレビで見ていた。少しばかり年上の彼女らの勇姿がまぶしく、そして誇らしかった。スポーツも今ほど日常的に目にする機会は少なく、プロレスや大相撲、プロ野球、ボクシングなど、テレビで見る選手たちは英雄であり、あこがれだった。
 あれから50年が過ぎようとしている。オリンピックと同じ年に東海道新幹線が開通し、東京ー大阪間が3時間で結ばれ、日本は高度成長期に入っていく。少子高齢化や若者の田舎離れが進み、地方は公共事業で潤いはしたものの、バブル崩壊後の地方は田舎ばかりではなく県庁所在地までも元気がない。日本海側では特に顕著かもしれない。
 今回の20年オリンピック開催決定のニュースは明るい話題には違いなく、マスコミや経済界(大企業)、政治家は大歓迎と言うところだろうが、前の東京オリンピックの時とは社会状況が大きく違う。今後7年間、関連事業で東京には人も金も集中するだろうが、地方が恩恵に与ることは少ないだろう。
 国政でもTPPは話題になっても自国の農業を本気で考える政治家は少ない。日本は面積の約70%が山間地だ。豊かな自然の中にもっと活路を見いだせるのではなかろうか。写真は山口県の日本海に面した角島と陸地を結ぶ角島大橋。00年完成で全長1789b。エメラルドグリーンの日本海沖に一気に車で行くことができる。



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●2013年9月11日版掲載

秋の風景 稲架掛け 島根半島

 9月の日本列島は稲刈りのシーズン。子どもの頃は、三度の食事はすべて米が中心で、「白い飯を腹いっぱい食べたい」が国民の願望だった。
 それから半世紀が過ぎ、パンだ、麺だ、パスタだと食生活が一変し、今では米余り現象。農家では生産調整が計られている。
 それでも4月になって田に水が入れば、眠っていた大地が目を覚ます。生き物や植物も活動を始める。里山に住んでいると、この頃の季節が一年で一番さわやかで美しく、心が癒される。
 カメラファンも田に水が入った風景を求めて飛び出してゆく。砺波平野の散居村の水田風景は水の上に家が浮いているように見える。里山の棚田の風景も、人間が知恵を汗で作り上げた芸術作品だろう。日本の風土や四季は米作りに最適だと思うし、日本の米は最高に美味しい。米の自由化だ、TPPだと問題はあるにせよ、これからも美味しいお米を食べたいと、日本人ならだれもが望み続けるだろう。
 とはいえ、今後の農業の方向性は変わるだろう。子どもの頃、刈った稲は稲架(はさ)掛けされ、それが秋の農村風景の一部だった。稲架掛けは子どもの仕事で、日が暮れるまで手伝ったのを覚えている。今では機械化され、稲架掛けも一部のこだわりの農家にしか残っていない。
 島根半島の海沿いでの撮影の帰り、山間地の狭い小さな田で稲架掛けをしていた農家があった。今まで見たこともない形。所変われば方法も変わる。人間のやることは面白い。今、日本列島は実りの秋を迎えている。カメラファンには毎年待ち遠しく、楽しい季節。今年も実りある秋を過ごしたいものだ。



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●2013年8月14日版掲載

多くを学べる教科書 富山県・小境海水浴場

 私が初めて海を見たのは、中学1年の夏休み。臨海学校に参加した時だった。食糧事情が悪く、米を持参して出掛けた雨晴海岸(高岡市)での3日間は、今も時々思い出す。民家1軒を借りて同級生たちと過ごした共同生活は、家族とも離れ特別に楽しいものだった。山村生活しか知らなかった若者にとって、海は巨大で、大とは違う恐怖と感動を与えてくれた。
 それから約20年後、富山市の四方浜で浜茶屋を開く小島さんという家族との知遇を得て、毎年浜開きには友人たちとともに招待を受けた。当時は海水浴というより、地引き網で引き上げた魚貝を肴(さかな)にした酒宴の方が楽しみで、浜風を受けながら友人たちと語らった夜は、これ以上ない至福の時間だった。
 その後、友人は浜茶屋を譲り楽しみも思い出に変わってしまった。その頃、夏休みの浜辺は若者や家族連れの人出でにぎわい、子どもたちの一番の楽しみは海水浴に行くことだったと思う。今は学校や地区にプールがあり近くで泳ぐことができるのと、安全面から海は敬遠されるようになったようだ。海は子どもたちに自然と付き合う知恵や知識を教えてくれる教科書なのに、と思う。
 今の時代、何か事故が起きれば、責任問題ばかりが追及され、大切なものを見失いがちになる。海や山や川は、子どもたちが真っ黒になるまで遊ぶ夏休みの定番であり、遊びの中から多くの知識を得た。大人になってもその経験はよき思い出であり、生きてゆく大きな力になった。
 今年の夏も暑い日が続く。浜が活気を取り戻してほしいと願っている。



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●2013年7月10日版掲載

変わる旅の仕方 福井県・若狭町

 昔の人たちはどんな旅をしたのだろうか。旅と言える旅はいつ頃から始まったのだろうか。
 ”越中売薬”として知られる富山の配置薬業は17世紀の終わり頃から全国展開が始まる。柳行李を背にしての旅から旅だった。俳人、松尾芭蕉は東北から北陸を、弟子たちと俳句三昧の旅を「奥の細道」にまとめた。明治の俳人、種田山頭火は人生の後半の多くを、家庭を捨て旅に生き”放浪の俳人”として名を残す。民族学者、宮本常一は、多い時は年に200日以上を旅に費やし、聞き書きにより多くの民族資料と貴重な写真を残している。
 旅の仕方は時代で変わり、人それぞれでもある。余計なことだが今の旅行代理店が募集する多くのツアーの参加者には、旅に寄せる思いはそう強くは感じられない。
 私の旅は車の移動が多いから、なるべく一般国道や地方道を利用する。高度成長時代は国道整備が車の増加に追いつかず、混雑と渋滞が日常だった。そのうちガソリンスタンド、レストランなど車の利用客向けの店が次々と現れ、いつの間にやらコンビニやホームセンター、道の駅が現代の道路の顔になっている。
 かつて庶民の娯楽の一つにパチンコがあった。商店街に生まれたパチンコ店は、郊外や道路筋に大型店として成長していく。電飾がきらめき、騒音とたばこの煙に包まれた世界は夜の若者のディスコの世界に通じていたような気もする。
 私たちは、わずかな時間の急激な変化に戸惑いながら生きていかねばならないのだ。



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●2013年6月12日版掲載

驚きと安堵を実感 青森県・つがる市

 一日たりとも写真を目にしない日はない。新聞、雑誌に始まり、パンフレットなどの印刷物には写真は必要である。これらはプロのカメラマンが撮影したもので、技術的にも高くアマチュアの世界とは大きな差がある。プロに近いアマチュアもたくさんいるが、一般的にアマチュアの世界はすべての表現において技術は劣る。
 世界文化遺産・五箇山にある合掌造りの私の家の前は撮影スポットで、多くの人たちが写真を撮る。撮影の状態を見ればどんな写真が仕上がっているかだいたい想像がつくものだ。
 フィルムカメラ時代、カメラ屋さんのカウンターで写真の技術や撮影のタイミングなどを店員さんから多くを学んだ。今はそれがない。デジタル時代で多くの町のカメラ屋さんが姿を消し、行きつけの店も少なくなった。
 カメラもケイタイ、コンパクトカメラ、一眼レフと撮影方法は違ってもデータを記録することは同じ。写真やデジタル技術がこれまで以上に日常や教育、遊びに必要とされるだろうから、小学校から図画の時間があるように、写真を学ぶことも教育の中に取り入れたらどうだろうか。写真の持つ魅力は、記録性や社会性、アートの世界など無限大である。
 写真は津軽半島。岩木山を正面に見て車を走らせていると、幼稚園児が運動会の練習中。周りには家も人影も見えない。広大な大地に園児たちばかりで都会の子どもとの環境の違いに驚きと安堵を実感。日本もいろいろあるんだ。



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●2013年3月13日版掲載

60年ぶり大遷宮 島根県・出雲大社

 今年は、日本を代表する神社建築、伊勢神宮と出雲大社の遷宮の年である。伊勢神宮は20年に一度の「式年遷宮」。建造物すべてが新たに建造され、遷宮に伴い祭事の宝物、衣装なども新調される。
 20年に一度、新しく生まれ変わることは、伝統技術が伝承されていくことでもある。自社の山林を持ち、代々受け継がれてきたものをすべて同じ形で継承するのに、20年という間隔が重要な意味を持つのであろう。
 一方の出雲大社は60年ぶりの大遷宮。1744年造営の本殿(国宝)屋根の檜皮
(ひわだ)の葺(ふ)替えが08年から始まり、今年5月には「大国主大神」(おおくにぬしのおおかみ)が仮殿から新しい本殿にお還(かえ)りになる。
 「古事記」や「日本書紀」によれば、国づくりを成し遂げた「大国主大神」が、国を統治する社として出雲大社が出来たと言われる。神話に語られる出雲だが、実際考古学的に解明できないことも多かった。ところが近年、古代出雲を語る大きな発見が相次いでいる。昭和59(1984)年には新庭荒神谷遺跡から358本の銅剣と銅矛16本、銅鐸6個が出土。平成8(96)年には加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が発見され、なぞの多かった出雲大国が現実味を帯びてきた。そして平成12年には大社敷地内から巨大柱が見つかった。大社は平安期には48bの巨大神殿だったのだ。
 今年の大遷宮は新たな発見と遷宮により、神々も活力を得、聖地は熱いエネルギーに満ちあふれるだろう。



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●2013年2月13日版掲載

春を呼ぶお水送り 福井県・小浜市

 小浜市は、福井県でありながら関西の文化圏に入るだろう。若狭湾で獲れた魚は京都や奈良に運ばれ、関西の台所を潤して来た。若狭湾は国定公園にも選定され、入りくんだ湾は風光明媚で変化に富み、写真の被写体としては一年を通じて格好の撮影地である。
 またリアス式海岸で潮の流れもいい若狭湾は、日本最北のトラフグの本格的養殖地でもある。自然に近い環境の中で、身の締まった歯ごたえのある70センチにもなる大型のフグが育ち、市場に出荷されている。日本海はブリやカニばかりでなくフグも冬の味覚として味わうことができるのだ。
 大陸からの文化も若狭を経由して京都や奈良に伝えられ、強いつながりがある。若狭に春を呼ぶ伝統行事「お水送り」は奈良・東大寺二月堂にお供えの水を送る神事。毎年3月2日、神宮寺を出発した行者の一行は、松明を掲げ遠敷川約2キロ上流の「鵜の瀬」まで進む。送水文を読み上げ遠敷川に注がれた水は10日間かけて奈良・東大寺二月堂の「若狭井」に届くという。まことに神秘的な神事だ。
 神宮寺は国の重要文化財に指定されている。小浜市にはほかにも重文クラスの名刹が多く、中でも806年創建の明通寺は本堂と三重の塔が国宝に指定されている。本尊の薬師如来像(平安後期)は他の3体の仏像とともに重文指定されている。
 1月ともなれば、本堂は静まり、足元の冷えは体の芯まで伝わる。1200年の歴史は多くの参拝者に力と勇気を与えてきたのだろう。三重の塔も少しばかりの雪を背に、寒空に凛と立っている。



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●2012年12月12日版掲載

地方で生まれた名作 青森県・鰺ヶ沢町

 昭和30〜40年代、写真は報道写真と呼ばれる社会派の写真が主流であった。昭和45年の大阪万博から商業写真が高度成長と共に市場を拡大する時代に入る。週刊誌や月刊誌が次々と生まれ、女優を写したもの、ファッション写真などが”婦人科”と呼ばれていた頃もあった。
 高度成長前は、写真撮影で生活できる時代ではなく、有名写真家も写真雑誌でのアマチュア指導やコンテストの審査などで食べていた。それでもそのような苦しい時代には、多くの作家に代表作が生まれている。木村伊兵衛の「秋田」、浜谷浩の「裏日本」、上田正治の砂丘や出身地・出雲の地の写真など、地方の写真家が歴史に残る作品を次々と発表している。
 その後多くの若いカメラマンが生まれ、収入も増えたにもかかわらず、今に残る作品は少ない。かっこいいからとか、金が稼げるからなどの理由で写真の世界に入って来た若者が多い事も考えられるが、高度成長が風景や祭りなど地方らしさや日常を大きく変えてしまったのが原因と考える。
 平成に入り、経済が落ち込み、地方は少子高齢化や仕事のない若者の増加などで戦後最も元気のない時代が続いている。希望の光が見えない地方に、どうカメラを向けるのかが、現在のカメラマンの課題であろう。
 青森の初冬は厳しい。鰺ヶ沢の漁港で写真を撮っていると、年配の漁師が寒風にさらされた干物を「食べな」と差し出してくれた。口に入れると、固くて冷たくて味も分からない。今の時代の行く先もまた、分からない。



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●2012年11月14日版掲載

豊かな田畑の風景 兵庫県・香美町

 昭和20年代まで、山間部の寒冷地に適した米の品種がなく、北陸や東北の山間地では、ほとんど米が作られていなかった。1931年、新潟県の農事試験場で寒さに強い農林1号が開発され、今のコシヒカリにつながる品種改良により、日本の里山にも水田が開かれていくのである。
 里山の桑畑けや山林が水田に変わり、棚田の風景が生まれた。日本の原風景と言っても、東日本の棚田風景は、そう遠い昔からあったものではないように思う。日本海の海沿いの山間地では今でも小さい田畑が人々の手で守られている所が多い。平野で大きな田畑が耕作放棄されているのを見ると、人々の土地に対する思いの違いを強く感じてしまう。大きな農家でも大型農機具の経費がかかる世の中で、小さな田んぼでは採算が合わないけれど、先祖から受け継いだ田畑をおろそかにできないと年寄りたちは頑張っている。
 食料自給率40%未満の日本。食べ残しの捨てる量の多さといい、地球の果てまで円を懐に食料を買い占める行為といい、どうかと思う。日本は世界のどこの国よりも四季に恵まれ、水や食べ物など、、他国では考えられないような恩恵を受けている。やはり、わが国の基本は山林や田畑や自然環境が豊かであることが一番と思う。
 写真は兵庫県香美町。車を走らせていると数人の女性が畑仕事をしている。大変ですね、と声をかけると「てまがえ」でみんなで楽しくやっていますよ、とのこと。私が住む五箇山では、先人から「結」という形で助け合う絆が続いている。生産量は少ないが、地方には都市にはない豊かさがある。



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●2012年10月10日版掲載

人呼ぶ”魚のアメ横” 新潟県・寺泊市場

 旅の楽しみの一つに食べることがある。昼は何を食べようか、夜、宿では何を食べさせてもらえるか、などと考えながらハンドルを握るのも楽しい。昼はたいてい麺類で済ましてしまうが、たまに回転ずしを見つけて飛び込むのも一人旅のいい所である。
 その楽しみの中に、市場のぞきがある。土地のにおいや人々の会話や日常が生で見られる。全国に約1000もある道の駅には、生産者が持ち込んだ野菜や手作りの特産品が顔写真入りで紹介され、安心と新鮮さをアピールして販売されている。
 日本海側の都市にも好きな楽しい市場がいくつかある。当初は地元の台所としての役割だったと思うが、今では観光客が寄るようになり、新鮮な魚を並べたり駐車場を増やしたりして人気のスポットになっている。山口県下関市の唐戸市場、金沢市・近江町市場、秋田市民市場も好きな場所で、旅の気分を満喫できる。
 大切なことは、近江町市場も秋田市民市場も新しく建て直しても下の雰囲気を最大限に残し、新しい建物をあまり売り物にしていないことだ。かつての富山駅前にも闇市から始まった市場があったが、大型の再開発ビルに建て替えられて姿を消した。市場の部分も商業施設になってからは、かつての独特の味わいもなくなり客足も遠のいたと聞いている。生まれ変わることは大変に難しい。
 写真は新潟県長岡市の寺泊市場。「魚のアメ横」とも言われ、テーマパークのようで連日多くのツアー客や観光客を集めている。ここは人が人を呼び、魚の焼いたおいしい香りが人々を引きつけてやまない。



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●2012年9月12日版掲載

神々の国の島 島根県・隠岐の島

 8月のオリンピック期間中、日本人はここ数年で最も幸福な時間を持ったのではなかろうか。熱戦のニュースは心を癒し、楽しませてくれたばかりではなく、他の嫌なことも一瞬忘れさせてくれた。
 それほどここ数年は明るいニュースが少ない。特にここしばらくの国内政治の出口が見えない混乱、経済の低迷、若者の就職難、沖縄の基地問題などなど明るい方向に向かおうとしているものはただの一つもない。
 日米の基地問題のギクシャクからか、アメリカの後ろ盾も弱まっているところへ、ロシア、中国、韓国と隣国3国がここぞとばかりに領土問題で日本に揺さぶりをかけている。腹が立つのは、自国の問題から国民の目をそらすために領土問題を持ち出している指導者立ちである。数年前「品格」がブームになった。国家お品格ももちろんだが、国家の指導者の品格も問われなければならない。しかし、既にそんなものが通用する時代ではないのかもしれない。
 10年前、私はカメラを背負いロシア・ウラジオストク、韓国・ソウル、中国・大連を2年間に3,4回ずつ訪ねた。ソウルでは写真展まで開いた。3カ所とも嫌な思いは一度もなかったし、ソウルでは多くの人たちの協力好意を受けた。感謝の気持ちは今も変わらない。それでも竹島問題は理解できない。
 今回の撮影地は島根県隠岐の島。神々の国、島根県は日本で一番多くの神様がいる土地である。竹島は島根県の一部である。領土問題の解決を神様にお願いする訳にはいかないが、これ以上争いがエスカレートしてもいい結末は生まれない。品格ある対応を望むものである。



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●2012年8月15日版掲載

メモ魔だった土門拳 山形県・土門拳記念館

 私たちは何かにつけてメモをする。予定事項を書き込んだり、買い物、思いつき、昔のことを思い出してまで色々とメモをする。特に、年を取ると、メモしないと昨日のことも思い出せない。それでも昔のある一部のことを事細かに思い出すこともあり、人間の脳の中身は複雑である。
 写真についても過去に撮ったフィルムを見て、その時の状況を簡単に思い出すこともあれば、まったく撮ったことすら忘れているものもある。そこで私のメモ帳を開くことになるのだが、海外の旅でも場所、日時などわずかなメモがあるだけで、本当に知りたいことが分からない。国内になればさらにメモ帳の体をなしていない。
 それでも最近のデジタルカメラではフィルムと違い、日付やデータが記録されていて、それを頼りに思い出すことも多い。今はどうしても分からなければ、インターネットで検索すればほとんどのことについて、細かく情報を得ることができる。しかしネットで得る情報は単に情報だけであり、自分の目で得た情報ではない。
 写真を撮ることは自分の視点でテーマや中身の構成がしっかり骨組みされなければならない。
 山形県酒田市の土門拳記念館には多くの作品の展示とともに、メモ帳に関するコーナーがある。世界的写真家、土門拳(1909〜90)はメモ魔だった。「報道カメラマンなら当然」が口癖で、酒席でも他人の話をメモした。古寺、古窯跡など数十冊が残る。「すべてが鞄の大きさに見合った特注品で、絶えず持ち歩き、仏像や器の特色、寸法などのほか、気に入れば図解、彩色までした」とある。見習うことは多い。



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●2012年7月18日版掲載

のどかな風景 石川県・穴水町

 のどかな風景といったものがある。のどかという言葉の中には、自然が豊かで生活の中にうるおいをもたらす風景というものがあろう。
 高度経済成長で日本の風景は大きく変わった。都市にも地方にもコンクリートの建物が建ち並び、山が削られ、高速道路や林道が開発され、山深い地方はトンネルで結ばれ、田舎の生活も大きく変化した。日本の歴史上、ここ40〜50年の変わりようは過去にも、これからもないだろう。
 私のたかだか70年足らずの人生でこんなに多くの物を見られたことは幸か不幸か分からない。能登半島に車を走らせてからでも40年以上が過ぎた。私の住む五箇山が”陸の孤島”と呼ばれていた頃、能登もまた秘境であった。道路は土埃がたち、街並みは低く、静かなたたずまいであった・
 人々は自然と共に生き、物を大切に使い、たくさんの家族と地域との強い絆で守られていた時代であった。しかしながら、食べ物は十分ではなく、着るものも少なくようやくテレビや洗濯機が普及しようとしていた頃でもあり、国民が皆、豊かな生活を求めて懸命に働いていた。
 結果、多くの物を得て生活は豊かになった。一方で、今、改めて社会を見つめるとたくさんのものを失い、取り返しのつかないものも多い。今さらどうにもならない。
 道路もほとんど舗装されているから、どんな地方であっても車で走るのは快適である。生活も中身は都市とほとんど変わらない。地方の風景は変わった。のどかな風景に出合うこともめったにない。



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●2012年5月16日版掲載

水路が生きる日本の原風景 石川県・穴水町

 日本が世界に誇れるものに豊かな自然がある。政治や経済などは国際競争社会の中で浮き沈みがあるものの、自然だけは人間の力ではどうなるものでもない。それでも世界中でうらやましがられるおいしい日本の水も中国資本が買い求めようとしているらしいから安心できない。
 日本ではどこでも生水が飲めるものと思われているが、中国では生水は飲めないものと思った方がよい。そんな我が国でもヨーロッパからミネラルウォーターが輸入されていると聞くとわびしくなる。
 話はさかのぼり、江戸の古地図を見ると、細かく水路が張り巡らされている。物の運搬や防火の役目を果たしたのだろう。しかし時代劇でよく見る柳並木の風情も今は町並み保存の地区でしか見ることができない。
 約30年前「柳川堀割物語」という6時間以上に及ぶ福岡県柳川市の水郷を舞台にした記録映画を見る機会があった。かつての柳川は悪臭のため水路のほとんどが埋め立てられ、残った水路は水の流れもなく厄介者になった。そこで昔の風情ある水郷・柳川を取り戻そうと当時の市職員が奮闘。水路には悪臭がなくなり、水が流れ、人々が水郷の生活を取り戻すまでを記録していた。幾度かその後の柳川をテレビで見て、原風景を取り戻そうという思いを成し遂げる人間の意志の力を見たような気がする。
 能登半島の中ほどに穴水町がある。町中の一角に水路があり独自の風景を見ることができる。地方の水路を復活すれば後世の大きな遺産となるだろう。



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●2012年4月11日版掲載

バス停のような無人駅 青森県・驫木

 人間はいつごろから旅に出るようになったのだろうか。日常を離れて見知らぬ地で新たな発見をしたり、心のリフレッシュなど、旅の楽しみは無限である。神社仏閣巡り、山歩き、最近は道の駅のガイドブックもあるなど、何が目的か分からない旅もある。
 昔から人気の高いものに鉄道がある。私が37、8年前、富山市でカメラ店を営んでいた時、近所に夜行電車で鉄道の旅に夢中だった小学5、6年生の男の子がいた。今は有名なチェロ奏者だが、当時は写真を撮ってはフィルムを店に持ってきたものだ。
 その後、有名なディスカバリージャパンのキャッチフレーズで旅は一気に一般のものになった。鉄道も新幹線を中心に新型車両が導入され、ファンは過熱するばかり。今では女性ファンも増えて「鉄子」という流行語も生まれた。
 秋田県能代市と青森県五所川原市を結ぶJR五能線も人気の高いローカル線だ。日本海や国道101号と平行して北上する沿線には、日本の原風景が広がり、高度成長の恩恵にあずからなかった地方の現実が見え隠れする。沿線には世界自然遺産の白神山地や黄金崎不老不死温泉もある。
 中でも鉄道ファンに有名なのが驫木駅である。4、5坪ほどのバス停のような無人駅で、電車は2〜3時間に1本ほどしか停車しない。次に電車の到着を待つ鉄道ファンは、本当の旅の達人であるとも思う。冬の日本海が荒れ、白波を立てている。



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●2012年3月14日版掲載

”ハレ”の様相も変化 石川県・気多大社

 私の写真の旅は、祭りに合わせて日程を組むことはあまりない。日本の祭りも昔は曜日に関係なく行われていたが、近年、観光客を集めることと、当事者の住民や若者が参加しやすいよう土、日曜日に移されたということが多い。社会の流れで中止せざるを得ない伝統ある祭りもあると聞く。
 祭りよりも今の社会に合わせたイベントの方が多くの参加が見込まれ経済効果も高いと、行政も予算を組んで応援するから歴史あるものにますます人が集まらなくなる。
 石川県羽咋市の気多大社は能登の守り神である。歴史ある神社で毎年3月18日から23日まで、羽咋市から七尾市までの往復約300`を六十数人で巡幸する「平国祭おいで祭り」が行われる。祭神・大国主神が昔、邪神を退治し、この地を平和にしたという故事にちなむ。
 私が初めておいで祭りに出掛けたのはもう30年以上前のこと。巡幸の先頭を神馬が先導し、みこしや錦旗、威厳ある宮司らの行列が、村や町に春を告げ、沿道には人々が米やお供え物をもって御巡幸を喜んで迎えていたことが思い出される。旅所の神社ではおもちをまいたり、子どもたちが走り回り、ハレの一日をみんなで共有していた。巡幸に参加していた高校生は、父親もかつて参加したとのことだった。おいで祭りは能登の人々の心そのものであったように思われる。
 それも今では新馬もトラックで運ばれ、人々が春を迎えた喜びの顔を沿道で見ることも少ない。



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●2012年2月15日版掲載

弱体化の原因・・・ 新潟県・柏崎市

 日本海の旅は、日本再発見の旅でもある。高度成長と共に日本独自の産業に育ったのが、パチンコ。まだ娯楽の少なかった時代、街角には軍艦マーチが流れ、ドアを押して店内に入れば、チンジャラジャラのパチンコは、若者からじいちゃんばあちゃんまでの娯楽の中心だった。今では考えられないくらい店内はタバコの煙でスモッグ状態だった。
 自販機もいつの間にか都市から村の果てまで広がり、暗闇の中に自販機の光だけが輝いている風景もある。
 コンビニエンスストアは小売業の中でも最も成長した産業だ。小売り全体では百貨店を抜いてトップを走り続ける。店舗数も日本国内だけで4万3000店以上となり、よほどの田舎でない限り見ることができる。
 一部にコンビニがないと生活できないと思い込んでいる者もいて、恐ろしいことだ。昨夏の電力不足の折、パチンコ店と自販機の電気を節約すれば電力不足を簡単に乗り切れると言った首相もいた。
 しかし今、パチンコ店は街中から郊外に移り、不況で閉店に追い込まれ駐車場が草ぼうぼうとなった風景も多い。閉店となったコンビニの空き店舗もよく目にする。
 出来ては消えていく外食産業など、消費社会とはいえ、少子高齢化と共に国を弱体化しているような気がしてさびしい限りだ。これらの現象を写真に撮る者として、社会の記録を次世代に伝えていかねばならないと思うのは、年のせいだろうか。
 写真は海からの風に耐えながらお客を待つ自販機。




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●2011年12月14日版掲載

格好の日帰り撮影地 石川県・能登金剛

 私が写真を始めた昭和30年代、日本は豊かな生活を求めて欧米を手本にがむしゃらに働き始めた時代だった。働けばいつかは家が建てられる、毎日お腹いっぱい食べられて、家族旅行にも行きたい。そんな思いが強かったのではないだろうか。娯楽と言えば映画や音楽鑑賞、ハイキング、パチンコも人気の遊びだった。
 家族で旅行に行く家庭もまだ少なくて、旅行と言えば修学旅行、会社の慰安旅行、新婚旅行ぐらいだった。会社では生け花や社交ダンスなどサークル活動が盛んで写真クラブも人気があった。休みになれば、同好の志を集めて撮影行きが大きな楽しみだった。仲間が買ったばかりのマイカーに便乗して、夜明け前の未舗装の砂利道を心うきうきと出かけたものである。
 富山からだと、格好の撮影地が多い能登半島が、日帰りでは一番人気があった。特に、外海に面した千枚田や深浦港、能登金剛などは、アマチュアカメラマンにとっては魅力ある地だった。夏になれば、能登半島全域の地区で毎日キリコの祭りがあり、子どもから年寄りまで総出で楽しむ姿は、カメラの被写体としては最高だった。
 その頃はまだ、白黒写真時代で、撮影から帰るとフィルム現像、プリントと自家暗室の楽しみもあった。今のデジタル、パソコンとは違う別の楽しみ、喜びだった。講師を招いての例会もあり、今より写真の中身は濃かった。今後、デジタルからフィルムに展開していく方向もあっていいのではないか。写真h能登金剛の巌門。最近は人影もまばらで、かつての観光地も寂しい限りだ。




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●2011年11月16日版掲載

祭りに残る「品格」 島根県・美保神社

 日本人は祭り好きだ。今の季節、日本列島はさまざまな形の秋祭りでにぎわっている。加えて、近年は行政が地域活性化と称して新しいイベントの開催に力を入れている。
 イベントは伝統的祭りに比べて中身は濃くない。特産品の宣伝をうたい文句に、新鮮な魚や野菜の特売だったり、全国ラーメン祭り、B級グルメ大会など、”食”がメーンの企画が多い。日常的においしいものを食べているはずなのに、イベントとなれば、デパートのバーゲンのように列をなして順番を待っている。もしかすると、おふくろの味としておいしかった家庭料理は日本の食卓から姿を消したのではないかと思うこともある。
 それに比べ日本の伝統的祭りは、その土地に色濃く、強く根付いている。観光客がいなくても、見学者がいなくても問題ではない。エネルギーの爆発あり、神々との交流であり、男女の深い結びつきがあり、形は無限である。
 能登の若者は盆や正月に実家に帰らなくても祭りには必ず帰って来て、日頃のつらいことやストレスを発散して仕事に帰っていくと聞いたこともある。地方に仕事がなく、若者が大都市に行かざるを得ない時代にあって、地方の文化、伝統が生き続けることはせめてもの救いになると言えるのではないか。
 日本には品格という素敵な言葉がある。人々が比較をなくしつつある今、地方の祭りには品格やユーモア、色っぽさを見ることができる。12月3日、島根半島にある美保神社の秋の大祭「諸手船神事」は品格のある一級の祭りである。




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●2011年10月12日版掲載

「風景は思想」 島根県・大根島

 風景は思想であると言ったのは、画家の堀文子さんである。現在93歳の堀さんは毎年個展を開く現役の日本画家だ。70歳を過ぎてバブル経済全盛の日本にあきれ、世界を知るにはその国の春夏秋冬を経験しなければと単身数年にわたりフランス、イタリアに住み、その国を、そして日本を見て、考えた。
 堀さんは、ヨーロッパの田舎の風景が、負け戦を経験してもびくともしないのを見て、強靭な魂がこの風景を作っているのだと言う。同様に、堀さん自身も強靭な意志の持ち主で、画壇の外で独自の道を歩んでいる。
 堀さんの言う「風景は思想」は、日本海を旅していると強く納得できる。長い年月を経て消えていくもの、生き残るものとに淘汰され、文化となり歴史となっていくのだろう。そして日本の形が生まれ風景を作っていく。今、日本の地方はどこも人口の減少、少子高齢化に直面している。地方の集落では子どもの声があまり響かない。山はここ数十年炭を焼かなくなり、ナラの木はカシノナガキクイムシの被害で枯れ木となり、見るに耐えない。道路沿いには空き家や閉じた商店が廃墟となっているのが目立つ。人口が減れば田畑は荒れ、日常の生活や祭りが次世代に伝承されない。政治が悪いと責任を押しつけてきたかもしれない。
 写真は島根県中海に浮かぶ大根島。ボタンが有名で小さな社が似つかわしい。近くには幾隻もの廃船が海に浮かんでいて、話題になっている。



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●2011年9月14日版掲載

海渡る日本の中古車 富山県・射水市

 十年一昔とはよく言ったもので、21世紀の日本海を取り巻くウラジオストク、ソウル、大連と撮影に出かけていた時、当時の富山県知事は「環日本海」という言葉をよく使っていた。あれから10年余り経ち、今の県のトップからは「環日本海」の言葉はほとんど聞かれない。社会状況が大きく変化したことによるのだろう。
 石油などの天然資源でロシアは豊かになり、中国は国内総生産で日本を抜き(人口が日本の10倍だから驚くことではないが)、韓国は自動車やデジタル産業で日本を追い抜く勢いである。富山県も中国や台湾の富裕層に向け、観光客誘致に全力投球である。
 10年前、ウラジオストク港では、日本の中古車を積んだ大型貨物船の陸揚げ作業光景が連日見られた。街中では「○○幼稚園」「△△魚店」などと横書きされた車がそのまま走っていて日本の町かと錯覚するくらいだった。
 その頃、手荷物として扱われていた車に高い税金がかけられるようになり、中古車の輸出は年々少なくなっている。一時期、富山県射水市の国道8号沿線は、パキスタン人が経営する中古車市場で賑わっていたが、今は寂しい限りだ。それでも岩瀬港や富山新港からは多くの中古車が海を渡る。積み込み作業は、子どもの積み木遊びのようでもある。
 それにしても日本で使い捨てられた車が、隣の国では堂々と街中を走るというのはどういうことなのか。カメラを持って外に出れば、美しい日本の自然や、21世紀の日本もまた見えてくるのではないかと思う。



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●2011年8月10日版掲載

続けることが力に 新潟県・上越市

 1カ月近くの間に二つの写真展を見た。名古屋市美術館での「写真家・東松照明全仕事」展と大阪市・国立国際美術館の森山大道「オン・ザ・ロード」展。2人とも日本を代表するカメラマンでありながらスタイルや写真の中身も大きく違う。
 東松照明は戦後の日本にこだわり続け、沖縄や長崎を特に意識している。森山はプロカメラマンでありながら、ほとんど依頼されて写真を撮ることはない。その時代、その年代で感じる土地や都市を撮影の対象としている。そこは新宿であり、ハワイ、ニューヨーク、ブエノスアイレス、北海道、銀座など、森山の独自の目でつながれている。
 森山の撮影スタイルは大半の写真家がそうであるように、高級カメラを三脚にガッチリ構えてのスタイルではない。フィルム時代からコンパクトカメラを用い、今はコンパクトデジカメが中心。目の一部のようにシャッターを押し、デジカメのカメラマンがよくする撮影後、画像を確認することはしない。フィルムからデジタルに変わっても撮影手法は変わらない。写真展の作品は、写真集とか印刷されたものに比べ圧倒的に見る者に訴えてくる。ぜひ写真展に足を運び本物に触れてほしい。
 今回の3人の女の子の撮影地は新潟県の山間地である。写真家、浜谷浩は1940年から10年も通い続けた地で「雪国」「裏日本」の名作を残している。撮り続けることが写真の持つ力になる。私にはまだまだ写真から学ぶものが多い。



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●2011年7月19日版掲載

大自然と向き合う 山形県・鶴岡市

 日本列島は、南北に長く、それぞれの地が海とのかかわりで多様な文化を生み出し、育んできた。私のように山深い地に住んでいても、子どものころから生魚は食べられなくても塩物や干物で海の幸を食べることができた。
 山があり川があり、自然と四季に恵まれていたことを再認識させられたのが、今回の東日本大震災。被災地は陸も海も大きな被害を受け、放射能という目に見えない物体は人々に大きな不安を与え、取り返しのつかない傷跡を残すことになった。漁師は仕事にも就けず、夏だというのに子どもたちは海で泳ぐこともできない。被災地の被害は計り知れない。一つ救いがあるとすれば、世界中の人が日本人の目には見えない人間性を評してくれたことである。これから日本を再生していく中で、自然に恵まれた国土と人々の心が、国の芯にはなければならない。
 海沿いを車で走っていると、いけすのような海で小学生の姉と弟が遊んでいる。祖父が浜で食事を作って孫の安全を見守っている。自然は危険が多い。それでも今一度、大自然と向き合って遊びを考え、楽しむことも必要なのではないかと思う。



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●2011年6月15日版掲載

地方消滅しないか 富山県・富山市

 旅には乗り物が付き物である。車か電車かバスかいろいろある。出来るなら松尾芭蕉のように歩いて旅するのが理想だが、私の場合はほとんど車である。
 たとえば早朝早く青森県へ出発し、その日の家に到着すると3〜4日かけて海沿いの道を撮影しながら南下してくる。日本海を北上する時、高速道は新潟県の先でいったん切れる。山形県に入れば山形道が、秋田県には秋田道が部分的につながっている。どの高速道も東京に向かっている。仕事で走るのは不便だが、私のような旅人にはこの方がいろいろ変化があって楽しい。その土地、地方の良さも感じることが多くある。
 いつごろからだったか「北陸に新幹線を」と声が上がり、計画はあっても工事着工は遅れた。それでも2014年には金沢ー東京間が開通予定となった。なぜ急いで東京まで行かねばならないか、飛行機があるではないか、いろいろ意見はあった。それでも高度成長のおかげで高速道路は伸び、新幹線は青森から鹿児島までつながったが、これからはそうはいかない。
 それ以上に新幹線が開通することで在来線が整理されようとしている。東京へ行くのは早くなっても大阪方面は金沢乗り換えが増えるだろう。日常生活も不便になるのは困る。地方の魅力もなくなる。日本の地方が消滅していかねばよいが。
 それにしても人生60数年、何と多くの経験と世の中の移り変わりを見てきたことか。こんな時代はもうないだろう。 
 写真は富山市の神通川に架かる新幹線工事現場。

toyama jinzuugawa

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●2011年5月25日版掲載

意思伝わる一枚を 青森県・十三湖

 フィルムかデジタルか、白黒かカラーか。写真ファンが集まれば必ずと言っていいほど話題になる。多くの人たちの首から下がっているカメラはデジタルが多く、三脚に高級一眼レフカメラをつけているこだわり人はフィルム派が多い。
 私も8年前まではフィルムが中心でデジタルは別物と考えていた。その後デジタル技術は驚異的に進歩し、携帯電話やデジタルカメラは社会を変えたと言っていい。以前はネガカラー、ポジカラー(印刷用フィルム)、白黒フィルムと3台のカメラを必要としたが、今ではデジカメ1台で用が足りる。
 それでもフィルム派はなんだかんだとデジタルカメラを受け入れない。だが本当に大切なことはフィルムでもデジタルでもいい自分の意思が写真に伝わる強い写真を撮ることだ。白黒から始めてカラー、デジタルに変わっても表現力の強さは欠かせない。
 仕事を離れて写真を撮る時は、その時の気分で機種やフィルムを選ぶことも楽しみの一つである。この「日本海写真の旅」シリーズはデジタルカメラで撮っている。デジタルカラーで撮影し、白黒で出力するが、新聞紙上で最良の効果を出すのは難しい。
 私が写真を始めたころ、写真のほとんどが白黒で、当時のカメラマンから心に残る多くの写真を見る機会に恵まれた。デジタルになってシャッターを安易に押しすぎると言われる。今一度、フィルムであれデジタルであれシャッターを押す瞬間を大切にして、一枚一枚に心を込めて写し撮りたいものだ。写真は青森県の十三湖。

aomori jyuusannko

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●2011年4月13日版掲載

自然や歴史 地方で学ぶ 新潟県・出雲崎町

 東日本大震災が発生した2011年3月11日は決して忘れることのない日になった。3月末時点で死者、行方不明者2万8000人以上と発表されていて、今後どうなるかも分からない。
 新潟・中越や能登半島沖地震の何百倍ものエネルギーと、想像を絶する津波、追い打ちをかけるような福島第一原発事故・・・・・・。今まで経験したことのない天災と人災が複雑に絡み合い、復興に向けた見通しすら立たない地域も多い。
 「頑張ってください」「応援していますから」という励ましやわずかばかりの義援金が、今まで築き上げてきた財産や家族を突然失った被災者の力になれるのかどうかも分からない。被災によって平和な暮らしを奪われた人たちのことを思うと、いつまでたっても心が晴れない。
 私たちはこれら一連の出来事から多くのことを学ばなければならない。世はデジタル時代で、ビデオ、カメラ、携帯電話で撮られた映像は一般の人たちのものだった。一瞬の判断で事実を必死に記録し伝えようとする画面は、プロのカメラマンの映像とは違う力があり、我々見る人の目に焼き付いて離れない。
 近ごろテレビから流れる中身のないトークやお笑い番組、政治家の軽さに慣らされていたから、頭をブン殴られた思いだった。
 事故後の対応も人間の手に届かない現実に、ただ右往左往しえちるようにも見える。今度こそ現実を真摯に受け入れ、自然や歴史に学ばなければならない。手本は都会ではなく、日本の豊かな地方、田舎にある。写真は新潟県出雲崎町の小さな漁村。ここから遠くない所に東京電力の柏崎刈羽原子力発電所がある。



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●2011年3月9日版掲載

人とウミネコの聖地 島根県出雲市・経島

 私たちは日常、食事をしたりテレビを見たりするのと同じように、神社や寺では手を合わせて頭を下げる。特に結婚や年の初めなど、人生の節目には必ず世話になる。
 日本人は無宗教とか無信仰とか言う人もいるが、欧米のように一神教の国とは違い、八百万
(やおよろず)の神、仏の風土としての歴史がある。明治の初めまでみんな仲良くやってきたのだが、明治初期の神仏分離政策以降、日本人と宗教との関係があいまいになってしまったように思われる。
 それでも現代人は、旅ともなれば全国津々浦々の神仏に会いに行く。旅に神社仏閣は欠かせない。また「聖地」と言われる日常とは異なる場所、心ときめく、あるいは心休まる地へと人々は出かけて行く。
 その代表的な地、神話の国・出雲地方には八百万の神に会いに、日本全国から人々が訪れる。出雲大社から西へ来るまで20分ぐらいの所に、日御碕
(ひのみさき)神社がある。素盞鳴尊(すさのおのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)両神が祀(まつ)られている。
 そこからすぐ先の日本海にデンと大きな岩山が座っている。経島
(ふみしま)と言い、周囲約300bの岩の頂上には小さな社と鳥居が見える。日御碕神社の分社であり、年に一度、宮司が島に渡り、祭り事が行われると聞く。今流にいえば聖地である.経島で有名なのは、日本有数のウミネコの繁殖地として秋から春にかけて五千羽も渡ってくることである。経島は人間にとっても、ウミネコにとっても聖地なのかもしれない。



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●2011年2月9日版掲載

雪下ろし 今昔 富山県・五箇山

 私の住む南砺市相倉地区は、日本有数の豪雪地帯である。1月末日の積雪は4b50aぐらいあったが、いつも多いからニュースにもならない。
 それにしても、今年は特に多い。屋根の雪も3回から5回も下ろした家もあり、皆、相当に疲れている。1、2回の雪下ろしなら家の周りの雪も少なく仕事は早い。4、5回ともなれば前の雪を除雪してからでなければならず、5倍も10倍も労力がかかる。
 今年のように1月に入り毎日のように30〜40a以上の雪が降り続くと、たちまち4bを超えてしまう。10年に1度ぐらいの大雪であろう。
 私が子どものころ(50〜60年前)は、毎冬3〜4bの積雪をみた。除雪機械は何もなかったに等しく、スコップと、屋根雪下ろしの際に雪を割るためのコシキ(木の板で長い持ち手がついた道具)だけの時代。12月から4月末ごろまで道路は前面ストップして車も走らなかった。家では冬季間、五箇山和紙の家内製造が営まれていて和紙作りの仕事と外の雪下ろしや雪堀(大量に積もった雪を堀り上げる作業)の仕事で休む暇がなかったことが頭から離れない。
 当時は皆がそうだったから我慢と忍耐で乗り切った。暖房もない時代、靴下も暖かい下着もなく、子どもも大人もみんなみんな本当に強かったのだろう。
 その後の高度成長で多くの人たちが村を離れては行ったが、村も豊かな生活を得て若者も定住するようになっていく。今冬の大雪も、あと1ヶ月もすれば春も来るし、昔のような悲壮感はない。家の前では大型重機がうなり声をあげて人間の何十倍の仕事をこなしている。



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●2010年12月15日版掲載

変わりゆく冬の風景 新潟県・柏崎市

 12月にもなれば、雪国は冬支度で忙しい。山沿いでは雪囲いや越冬野菜の漬け込みなど、いつ雪が降ってもいいように準備が急がれる。昔に比べれば、雪が少なくなったとか、温暖化で暖かくなったと言われるが、そうは言っても五箇山ではひと冬に2〜3bの雪は積もる。それでも冬は大変だと言われなくなったのは、除雪への機械力導入で労働時間が減り、精神的負担も少なくなったからだろう。
 田舎でも道路は除雪され、交通の不便はない。家の周りも小型除雪機械やショベルカーなどが人間の何倍も仕事の能率を上げてくれる。それでも、何日も雪が降ると、雪が与えてくれる恵みのことも考えず「雪はもういらない」と人間中心になる。
 私の小学校時代、わらぐつをはいた着物の子どもも裸足の子どももいた。寒くていつも鼻水を流していたし、甘いおやつはないに等しい。それでも苦しかった思い出はない。厳しい冬の自然の中で、早く春が来ることを待ち望んでいた。
 今時の小学生はブランド物の防寒着に身を包み、お互い身を寄せ合いながら登校する。兄弟姉妹で助け合いながらの風景は変わらないが、子どもの数が少なくなっているのは寂しい限りだ。
 戦後の高度成長以前の日本では、自然との共存の中で得た文化や知恵が大きな財産であり、国の根っこの部分だった。今、地方は人口減にあえぎ活気がなくなり、将来のわが国を暗示しているようでもある。大人は次の世代のために本物の日本を伝える必要がある。
 写真は新潟県柏崎市笠島地区の小学生の登校風景。



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●2010年11月10日版掲載

豊かな能登の文化 石川県・輪島市

 日本海側の小さな村や集落を旅していると、寂しい場所で数戸の家屋がひっそりとただずんでいたり、海辺の厳しい自然環境の中で集落が形成されていたりして、人間のエネルギーと知恵に驚かされる。激しい競争社会の都会に住む人々のエネルギーにも驚くが、地方に住む人々の日常は自然との共存であり、不便ばかりではない。都会の生活とは質がちがう。
 今や、地方も道路は整備され、テレビやインターネットなどの充実で生活は豊かになり、決して都会に劣らない。そして何より地方には祭りや伝統文化が伝承されている。これほど多種多様な祭りや行事が受け継がれているのは世界でも日本だけだろう。島国であるがゆえに近隣で競い合った結果、似ているようで似ていない形が完成されていったのではなかろうか。
 今、日本は観光立国として外国人の受け入れを増やそうとしている。その中で日本の地方が持つ豊かな自然、優しく勤勉な人々とその知恵、伝統文化は他にまねのできない財産になる。今までは都市が日本を引っ張ってきたが、これからは農漁業も含めて地方が日本をリードしていくという気構えを地方人は持つべきだ。
 能登は地方のすべてがそろっている日本を代表する地域。1年を通して人々は、自然と伝統文化の中で意義深い生活を送っている。先人を敬いつつ。



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●2010年10月15日版掲載

万葉線と変わる風景 富山県・射水市

 旧JR富山港線の廃線を受け、富山市は06年4月からライトレールの運行を始めた。愛称ポートラムの電車は駅間を短くしたり、本数も増やすなど、市民に親しまれるよういろいろ工夫されている。富山市の観光の目玉とまではいかないかもしれないが、県外客やレールファンの関心を集めている。
 さらに市内の路面電車にレールを増設して環状線化し、新しい車体を投入してコンパクトなまちづくり、中心市街地の活力復活を狙っている。
 一方、高岡市と射水市を結ぶ万葉線は、ライトレールの先輩ともいえる。万葉線の歴史は古く、1951(昭和26)年、富山市西町から高岡駅前までの運行でスタートした後、新富山発に変更になった。66年には富山新港開港で富山ー堀岡間が切断され、現在の高岡駅ー越ノ潟間の路線で今日に至る。
 名称も射水線から万葉線に変わり、母体も富山地方鉄道、加越能鉄道から第三セクターと時代とともに変化した。
 昭和50年ごろ、私が土地の老人から直接話を聞いて記憶に残っているのは、富山新港が出来るまでは,新湊周辺は日本一の風景だと思って生活していたということだ。「新港ができて風景が変わってしまい、今はさみしいね」と。当時稲を運ぶ笹舟が通る小川が流れ、とねりこ(稲をかけるはさ木)の並木が続き、越ノ潟にある小さな島の神社の祭りに舟に乗って行ったという。
 今、越ノ潟の近くには海王丸パークも整備され、対岸の堀岡とつながる大橋も完成間近。風景は今も変わり続ける。写真は内川を渡る万葉線で、車体は赤くカメラの被写体にも向いている。



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●2010年9月15日版掲載

変わらない風景 島根県・出雲大社

 1300年前の奈良時代、出雲国風土記が編さんされた。出雲国とその九郡について、地名の由来や伝承、神社などについて書かれた地誌だ。出雲地方に住む人々の日常生活や言い伝えなど独自の世界が記されている。 
 自然と向き合う祈りの心、旱ばつや大雨、台風など人知の及ばない自然の力に神を感じ、祈る。1300年を経ても今と変わらぬ人々の姿。伝承される祭りや行事は、日本の原風景といわれる出雲ならではだ。
 出雲大社は大国主命を祭神とし縁結びの神社として広く知られる。新暦11月初旬、八百万の神が全国津々浦々から集まってくる。どこのだれとだれを結びつけようかと相談されるのである。八百万の神というから縁結びの神様ばかりではなかろうから、話はすべてうまくまとまるわけでもなさそうだ。現実にこの世は一度結ばれてもその後決して神の思うようには運ばない。
 出雲大社の本殿は、古代神社様式の「大社造り」で、国宝に指定されている。今、3年後の本殿遷座祭にむけて大改修が進んでいる。60年に1度の大行事でご神体は本殿から拝殿に移されている。00年には本殿前の地中から巨大な3本柱が発掘された。直系が1.35b。本殿は今の2倍の48bの高さがあり、巨大な造りであったことがうかがえる。
 写真は神楽殿に掛けられている重さ4.5dの大注連縄(しめなわ)で、形は雲を表している。人々と比べてみれば大きさが分かる。




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●2010年8月18日版掲載

キリコと火祭り 石川県・能登島

 今年の夏は梅雨明けと共に極暑に見舞われ、日本列島がうだっている。
 子どものころを思えば、夏はいつもカンカン照りで雨も降らず、毎日汗だくだった。家には冷蔵庫がないから、裏の池にはやかんのまま冷やしたお茶があり、横にはスイカやキュウリが冷えていたのを思い出す。昼ご飯が終わり、裏の戸を開ければ山の風が心地よく、みんなごろっと昼寝をしていた。寝たきりの年寄りもいなくて、みんなとても元気だった。
 能登の夏は天気ばかりでなく、キリコを中心とした夏祭りで燃えている。キリコとは墨文字や武者絵が描かれた縦型のあんどんで、神輿の道中を照らす御神灯のこと。小さいものは4〜5b、大きいもので12bもある。海の安全と豊漁を祈願する祭りで、カネや太鼓の音とともにキリコが闇の世界に浮かぶ様子は威厳があり、幻想的だ。
 かつて漁師は、お盆や正月は船の上にいても、祭りの日にはキリコを担ぎに帰ったと言われ、熱気にあふれていた。今では漁業の縮小や若者の地元離れで昔ほどの熱気はない。それでも祭りのために都会から帰ってきた若者もいて、日常は見せない幸せいっぱいの表情が見られるのも伝統の持つ力といえよう。
 七尾湾に浮かぶ能登島の向田(こうだ)の火祭りは日本三大火祭りの一つ。広場の中ほどに30bもの大たいまつを立て、その周りを神輿、キリコが練り、住民の手たいまつが乱舞する。最後は手たいまつから大たいまつに火が投げ入れられると、炎は天に向かって駆け上がる。大たいまつが倒れる方向で豊作、豊漁を占う。向田の火祭りは7月最終土曜日に行われる。




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●2010年7月14日版掲載

植田正治と鬼太郎 鳥取県・境港市

 鳥取県の西端、境港市は島根半島の付け根に位置する。松葉ガニ、マグロ、イカなど水産の町でもある。隠岐諸島へのフェリー発着場や韓国、中国、ロシアとの貿易港としても日本海側を代表する港町である。
 生涯アマチュアを通した写真家、植田正治(1913〜2000)は境港で生まれた。15歳でカメラを持ち、19歳で上京。わずかの修業の後、隣町の米子市で写真館を開いた。中央の雑誌に山陰の風景などを投稿して山陰の植田として名を知られるようになる。中央の作家とも親交を深めながらも決して鳥取を離れようとしなかった。山陰を撮り続けた姿勢はアマチュア精神に徹したともいえる。
 米子の写真館は2階が喫茶店でいつもアマチュアカメラマンのたまり場になり、話がまとまれば撮影行きとなる自由な雰囲気だったようだ。植田の代表作に鳥取砂丘の作品がある。家族や子どもらがモデルで、詩情豊かな日常の幸福感みたいなものが伝わってくる。
 山陰は神話の国として独特の土地の香りがあり、生活する人々、木や川、生き物すべてを植田のカメラはとらえている。それらの作品は植田正治写真美術館(鳥取県伯耆町須村、電話0859・39・8000)に展示されている。
 写真は境港市にある水木しげるロード。同市出身の漫画家、水木しげるさんのおなじみの妖怪たち120体がブロンズ像で観光客を出迎える。鬼太郎や目玉おやじたちの町おこしは大成功で、年間300万人にのぼるらしい。




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●2010年6月9日版掲載

津軽三味線の魅力 青森県・五所川原市

 私の好きな音楽は、ジャズ、ファド、津軽三味線。十代から二十代の東京生活では、音楽といえばジャズだった。当時、有名だった音楽雑誌「スイングジャーナル」の専属カメラマンの助手をしていた時期がある。コンサート会場で来日したプレーヤーの演奏にしびれ、休日には銀座、新宿、お茶の水のジャズ喫茶に通っていたことも青春の思い出だ。
 ポルトガルの音楽、ファドのきっかけは思い出せないが、国民的歌手、アマリア・ロドリゲスの歌声を一度聴いたらとりこになってしまった。ほかにも韓国での撮影の旅でアリランを聴く機会がなく、友人にアリランのCDを探してもらって買った。美空ひばり級の歌手が、その地方ごとの歌い方をしていて、歌そのものの歴史を感じることができた。
 津軽三味線といえば高橋竹山。大柄な体に独特の語りと力強い音は民謡ファンならずともひきつけられた。他の民謡の三味線の音とはひと味もふた味も違う東北津軽の風土そのものであった。
 近年、津軽三味線に若い演奏家が登場してテレビなどでも若いエネルギーのギターならぬ三味線で民謡の世界にファンを呼び込んでいる。彼らの音はロックやジャズに通じるものがあるのだろう。民謡の世界から飛び出している。
 五所川原市(旧・北津軽郡金木町)の太宰治記念館の前に津軽三味線会館がある。毎日、全国から修業に来ている若者が観光客相手に腕を磨いている。いつか全国デビューを果たすことを夢見て。



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●2010年5月14日版掲載

古き良き時代 今に 島根県・石見銀山遺跡

 法隆寺、姫路城などが日本で最初の世界遺産に登録されて17年。その後、文化、自然遺産は全部で14になった。最初は順調に登録されていたが、世界遺産の総数も800を超え先進国よりもアフリカや未登録の国の遺産登録に向かっているようだ。
 国内では平成19年、登録が延期されるのではと言われていた島根県の「石見銀山遺産とその文化的景観」があっさり登録されて翌年、確実視されていた岩手県の「平泉、浄土思想を基調とする文化的景観」が見送られたまま現在に至っている。
 世界遺産を一番望むのはもちろん地元ではあるが、その次が観光業者であろう。世界遺産登録で一気に観光客が増えるのはマスコミ情報の力が大きいことはもちろんだが、裏で支えているのが観光業者だからだ。登録と同時に世界遺産の名前だけで多くのツアー客を送り込んでくる。
 国や県は登録までは積極的に力を貸すが、登録されれば遺産の保護よりは観光優先となる。特に最近は格安ツアーが中心で、金も使わない質より量の観光になった気配である。 
 私の旅の行き先は、ほとんどツアー客はいない、静かで文化や自然の中に生きている所ばかりだ。写真を撮る撮らないは別にして、自分の眼で豊かな日本を見つけることが旅の楽しみではないかと思っている。
 世界遺産・石見銀山の銀鉱石の積み出し港としてにぎわった沖泊(おきどまり)のすぐ近くに温泉津(ゆのつ)温泉がある。古き良き時代を今に伝える町並みは静かで風情あるたたずまいだ。




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●2010年4月14日版掲載


簡単に出合えない 番外編・富士山

 今月は番外編で富士山を取り上げる。日本で一番写真に撮られ、大人から子どもまで絵が描ける。それだけ身近な山、富士山に3月初め、山梨県の富士五湖側から見てきた。
 地元の人の話では今年は例年より天気が悪く、なかなか顔を出さないらしい。その時も初日は残念ながら厚い雲に覆われて見えなかった。それでは、と山中湖にある個人の写真ギャラリーを見に行った。本人は地元のアマチュアカメラマンと富士山の話で盛り上がっており、仲間に入れてもらった。
 若いときはアメリカで肖像中心のカメラマンをしていて、オーソン・ウェルズやマイケル・ジャクソンなど多くのスターを写していたとのこと。帰国後富士山に魅了され、ギャラリーまで開いたという彼の人生を、四季の富士山の写真を背に聞いた。
 次に河口湖美術館で全国から募集した富士山の写真を見に行く。新聞紙見開き大のカラー写真が100点。美しすぎる。
 そして富士山といえばこの人、岡田紅陽写真美術館へ向かった。白黒写真の圧倒的な力はカラーでは味わえない。さすが富士山の第一人者。写真からは山の偉大さ、その時代の日本の風土や風景、多くの物が語りかけてくる。写真はこうでなくちゃ、と先人に頭が下がる。
 2日目の午後、雲の切れ間から雪を頂いた富士山が顔を出した。簡単に合えないからこそ、より強さを感じられるのも魅力の一つだろう。
 写真は河口湖美術館近くから見た富士山。




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●2010年3月10日版掲載

海は神秘な世界 秋田県男鹿市

 旅の楽しみの一つに水族館めぐりがある。山生まれの私が初めて海を見たのは中学1年生の時。林間学校で海水浴に出かけた時だった。当時、米が自由に手に入らない時代で、米を持参したのを覚えているが、海の印象は大波に乗り楽しかったことぐらいしか記憶にない。
 その後、特別に海を意識してきたわけではないが、昭和50年頃、最初の写真展のテーマが「富山新港」だったりで、海に心動かされるものがあるのだろう。
 1日たりとも空を見上げない日はないから、地上の出来事や四季の移り変わりは何となく分かっている気でいる。それに比べて海の中の世界は見たこともなければ、これからも自分の目で見ることはまずないだろう。
 水中カメラマンの写真は、海の生物の世界がきれいに写されているが、現実はすごいドラマが毎日繰りかえられているのだろう。一方、水族館の水槽の世界は誠に平和で争いごとはほとんどない。現実の海中の世界とは違うものだ。それでも水族館には年々大型の水槽が現れて、何万匹もの大小の魚が悠然と泳ぐ姿を売り物にしていて、見ていると時間がたつのも忘れる。
 小さな水槽に黙々と上下している「タツノオトシゴ」とかクラゲを見ていると、海中の神秘な世界、人間が侵すことのできない世界があるように思う。気候変動が叫ばれている今、これ以上地球を汚さないことを切に感じることである。
 写真は「男鹿水族館GAO」で。



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●2010年2月10日版掲載

「何、これ」建造物 秋田市立体育館

 旅の途中、時々オヤと思うものに出合う。今まで見たこともないもの、その土地になじまないもの、何でこんなものが、と思わせる出合いは、旅の面白いところであり、考えさせられる点でもある。
 変わらないでほしいもの、変わらねばならぬもの、変わってほしいものなど、人それぞれ思いは違う。地方といえども何も変わらないままでは進歩はないが、よそ者がとやかく言うものではないとも思っている。
 国道7号を秋田市内に車を走らせていると、建物の間に異様な物体が見え隠れする。車で近づくにつれ、大きな物体が正体を現すと「何、これ」と思わず叫んでしまう。聞けば秋田市立体育館という。今まで目にしてきた交響の体育館のイメージとは違い、並外れて大きく独創的だ。
 1994年の完成とあるから、日本がまだ豊かだった時代の産物と言えよう。私には理解できないが、目の前に存在するということは多くの市民の支持を得た証拠だろう。
 今までも宗教団体の建造物が話題になったことがある。しかし宗教団体と公共の建物とは本質的に目的は大きな違いがある。あのころは国も地方も金があったから建ったというのではさみしい。
 日本海を旅しているとカメラを向けたい時も、その逆もある。現実に目の前の光景が21世紀の今を表しているものなら、シャッターを押したくなくても、押すことにしている。
 この写真は現在を写してはいるが、時がたてば別の面を発見させてくれるだろう。



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●2009年12月9日版掲載

町全体が城のよう 島根県出雲市

 私が写真を職業としていたころ、カメラと言えばフィルムの時代だった。それから15年。プロの仕事の大部分がデジタルカメラにより記録されている。フィルムにこだわっているプロの人たちはほんの少数になった。
 一方アマチュアの世界では、ベテランやコンテストにこだわっている人たちにフィルムにこだわり派も少なくない。そんな人たちはフィルムの表現がいかに優れているか、デジタルはまだまだ遠く及ばないと主張する。面白いのは、フィルムにこだわっている人たちのほとんどはデジタルを経験していない。
 フィルムの表現は百数十年をかけて完成したのに対し、デジタル技術は電気製品の進歩に伴い急速に発展し、現代社会に欠かせないものになった。その技術がカメラに応用され使用者が追いつかない速さで進んでいる。
 フィルム表現とデジタル画像の表現はそれぞれ異なるもので、特徴や良さは比較できるものではない。それぞれの良さを見つけて楽しむものだと思う。
 私は6年前にフィルムで個展を開いた。現在デジタルカメラだけで日本海写真の旅を続けている。年末に「日本海、写真の旅ー竜飛岬から下関まで」の写真展を開く。インクジェットプリントは初めてだ。フィルム派もデジタル派も写真展の感想を聞かせてほしい。今から楽しみだ。
 写真は島根半島・出雲市小伊津町。日本海に面して200軒ほどの家が建っている。上から見ると町全体がお城のように見える美しい景観だ。

池端滋「日本海、写真の旅ー竜飛岬から下関まで」展は12月17日(木)〜21日(月)、富山市新総曲輪の県民会館2階ギャラリーBで開催。開場は午前9時(初日は正午から)〜午後6時。ここ5年間に撮りためた作品の中から約200点を展示。入場無料。




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●2009年11月11日版掲載

土地代表する鮭 新潟県・村上市

 新潟県北部に位置する村上市は、山、川、海と自然環境に恵まれた地で、かつての城下町である。
 今から約230年前、三面(みおもて)川の鮭(さけ)漁が年々不漁になり、深刻な問題をもたらしていた。時の村上藩士、青砥武平次(あおとぶへいじ)は「鮭は生まれた川に帰るのではないか」と考え、三面川を鮭の産卵に適した川に変えようと大工事を行う。前例のない試みは30年にも及び、見事に鮭の増殖事業に成功するのである。
 この歴史的成功で、村上市では鮭を「土地を代表する魚」という意味で「イヨボヤ」と呼ぶようになる。鮭料理は武家や町人により工夫伝承され、今では百種類以上にものぼる。村上の鮭の値段は、日本の鮭の価格を決めるともいわれる。
 また村上市は「むらかみ町屋再生プロジェクト」と称して町屋の再生と景観を整えることで町の活気を取り戻そうとしている。この市民運動が数年前にスタートし、成果を上げて全国に名前を知られるようになった。9月の屏風祭り、3月の人形さま巡りなどの町屋巡りは多くの観光客を集め、今では年間30万人にもなるという。地方の町がさびれる中で、立派としかいいようがない。
 村上の鮭は頭を下に、腹は一部を残して開き、鮭に切腹させない伝統的な製法で知られている。鮭がつるされた撮影は「味匠 きっ川」(きは七が3つの漢字)で許可を得た。フラッシュ無しで、デジカメの利点のASA感度をめいっぱい上げて雰囲気のある写真を撮ることを心がけたい。




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●2009年10月14日版掲載

刻々と変化する光 福井県・若狭町

 山育ちの私は海に強くひかれる。その数ある魅力の中でも、複雑に入り組んだ海岸線は、自然の造り出した最大の美だと思う。残念なことに富山湾の海岸の造形は変化が少なく単調だ。
 早朝、太陽が昇ると光は地上すべてのものに命を与えるがごとく輝きを放つ。刻々と変化する光は、生き物のさまざまな顔を映し出し、雑草までもが自己主張する。夕景の光も一日の終わりにふさわしく静かで、厳かだ。
 夜景の写真を撮るならば陽が落ちて暗くなるまでのほんの一瞬がチャンスだ。自然の光と人間の作り出した人工の光が交差するわずかな時間、4,5分しかない。写真を撮る者は朝と夕が一番大切な時間と思った方がいい。撮影に出かける朝は日の出ごろ着くように時間を逆算して家を出る。夜中の2時とか3時、子どもの遠足と同じで早く目が覚めて眠れないものだ。
 福井県の若狭の海は国定公園に指定されている。日本海に突き出た半島に小さな無数の湾が変化をつける。車で走っていると迷路に迷い込んだようで、方向を見失ってしまう。元の場所に戻ってしまい、苦笑いしたこともある。
 この時も三方五湖の周辺を走っているつもりが美浜町の海岸に出てしまった。夕方の海岸には人影もなく、と思ったのに若い2人の女の子がギターを練習している。話しかけたら気さくに話してくれる。今時の若い2人は写真にも興味があり、撮影を忘れるぐらい盛り上がり楽しい時間を過ごした。



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●2009年9月9日版掲載

小島が愛した北の自然 青森県・つがる市

 昭和30年代、青森県津軽地方を撮り、多くの写真を残した写真家に小島一郎(1924〜64)がいる。津軽地方をライフワークとして作品を発表しながらも39歳の若さで亡くなった。
 昭和21年の春、敗戦兵として中国大陸から故郷の青森へ帰ってくる。戦災で焦土と化した故郷で、目に入るものは焼けた木の奇異な形と点在する焼トタンの小屋ばかり、と当時語っている。
 大家族のため、津軽地方の戦友を訪ねて食料の買い出しに出かけることになる。その後カメラを手にした小島は、津軽の美しく澄んだ空、岩木山の北に広がる果てしなき大地の姿を、とりつかれたようにカメラに収めてゆく。
 小島はリアリズム写真が叫ばれる中で、造形美を追求した写真を求めて写し続けている。小島の写真には、農民、子ども、集落、馬、農機具、お地蔵さんなど、津軽の日常が写っている。厳しい自然と生活の中で、山々や光が作り出す大地の中に、人々を生き生きと登場させていて、北の暗さはない。
 十三湖から「つがる市」を通る県道12号を岩木山を正面に見て車を走らす。ほとんど人影もなく、すれ違う車も少ない。9月というのに秋の気配も強く、肌寒く感じる。3人の家族が畑で精を出している。スイカが所々で転がっている。今年の収穫も終わり、来年のための後かたづけであろう。冬になれば、地吹雪で景色も一変するだろう。小島が好んだ厳しくも美しい冬ももうすぐだ。



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●2009年8月13日版掲載

遠くに動く赤い帽子 島根県・出雲市

 「どういう写真を撮られていますか」と、よく聞かれる。自身の写真の傾向を他人に話すことは難しい。地方にいて写真の仕事をしていれば、これが得意、これが好き、と言っていれば仕事の依頼は少なくなる。それでも相手(発注先)からすれば、あいつはこの分野が得意で、アレが下手と知らぬ間にレッテルが張られている。本人も力の入る仕事とそうでもない仕事が区別されてくる。年月が得意、不得意を作っていく。
 私の20〜30歳代のころ、カメラを持って出かけた先には、老人や仕事に熱中している人たちが写っている。あの頃の人生を生き抜いた顔は、今の同じ年代に比べて、人間としてはるかに深みがあり魅力的だったと思う。それは町行く人たちでも、畑仕事をする人、職人さん、飲み屋のおじさん、作家と言われる人たちにも通じる。
 日本海写真の旅は、21世紀の日本海に住む人たちと自然とのかかわりを自分の眼で確認し、高度経済成長後の日本をカメラに収めることだ。車で走っていても、目にとまるもの、通り過ぎていくものそれぞれで、しばらくして引き返し、カメラを構えることもある。この感じは言葉では言い表せない直感だ。
 遠くに小さな赤い帽子が幾つも動いている。近づくと幼稚園児が田んぼに案山子(かかし)を立てている。都会の子どもたちには経験できない自然とのかかわり。園長さんの許可も得た。子どもたちの声が聞こえてきそうな写真が撮れたらいいな、とシャッターを押した。



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●2009年7月15日版掲載

海に浮かぶ家並み 京都府・伊根町

 私の住む富山・五箇山から丹後半島・伊根町の伊根湾舟屋の里まで約350`ある。北陸自動車道を敦賀で降り、小浜、舞鶴、天橋立、伊根と一般国道を走ることになる。日本の高速道は太平洋側は一本で結ばれているが、日本海側はとぎれとぎれで一般国道を走るから旅を楽しむにはこの方がいい。その分、今の高速道路割引、特にどこまで行っても1000円という恩恵は受けられないが。
 伊根湾をグルッと囲んで建つ舟屋は約350軒もあり、ほかの地では見られない景観である。この地区は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、文化財法で保護されている。
 伊根湾は天然の良港と言われ、古くは湾に追い込んだ鯨を銛(もり)一本で仕留めた時代もある。今は定置網で捕れるブリが日本三大ブリに数えられている。
 それにしても海面すれすれに建つ家は、満潮や台風の時には大丈夫なのかと他人事ながら心配になる。1階は舟の格納庫で、2階が居住スペース。1階の一部は海の中と言ってもいい。対岸から見れば、海に家並みが浮いているように見える。今、全国的に町並み保存が叫ばれているが、舟屋の美しい風景を見ていると、そこに生活している人々が50年後まで今の形を伝えていくのは大変だろうと心配になる。
 自然と一体となった家並みを撮影するには、朝晩の光をうまく取り入れることが写真を生き生きとさせる。舟屋の2階を民宿として開放している家もあり、海辺での一夜もいいだろう。しかし、この地は生活の場。住民のプライバシーには十分に気を遣うことである。



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●2009年6月10日版掲載

日本最古の土俵 石川県・羽咋市

 昭和20年代の私の小学校分校時代。暗くて狭い校舎は、はなたれ小学生の元気な声が響いていた。夏はソフトボール、冬はドッジボールか相撲が体育のお決まりコースだった。お盆には村で一番大きな集落の境内に土俵が建造された。個人や地区対抗の戦いが繰り広げられ、娯楽の少ない時代、境内は村人の応援で盛り上がった。今ではあのような熱い風景はどこにも見あたらない。
 当時ラジオから流れて来るのは相撲の実況放送だけで、栃錦や若乃花、朝潮といったスーパースターに、こたつに入りながら声援を送ったものだ。
 54代横綱、輪島は能登・七尾市石崎の出身。学生相撲出身の初の横綱で、言動や生活は相撲界の常識からはみ出るもので、当時マスコミをにぎわしたものだった。輪島は金沢高校から日大に進んだが、金沢高校時代に相撲を取ったであろうと思うのが、羽咋市の唐戸山神事相撲である。
 唐戸山神事相撲場は、日本で最古の約2000年の歴史がある土俵といわれ、神事相撲は水なし、塩なし、待ったなしのルールで毎年9月25日に行われる。加賀、越中、能登の若者が参加して、心技体を競い合う行事は現在も続いている。
 相撲場の隅に小さな木造の建物がある。そこに一枚の大きな白黒の写真が飾ってある。すり鉢状の相撲場には何千人もの人たちが土俵を見つめ囲んでいる。一枚の白黒写真からは時を超えて多くの物語を伝えてくれる。写真の持つ力だろう。



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●2009年5月22日版掲載

日常とかけ離れた地 青森県・五所川原市

 子どものころ、隣家の薄暗い座敷で、地獄絵図の掛け軸を見たことがある。閻魔大王や赤鬼、血の池地獄などがおどろおどろしく描かれていて、子どもにとっては十分に強いショックを受けた。
 その後、下北半島の恐山の話を耳にした。その地が霊場で死者の声を聞くことができるとなると、子どもの時の地獄絵図につながるようで興味がわき、一度は訪ねてみたいと思ってはいるが、いまだに果たされていない。
 今度の旅は青森県津軽半島にある、太宰治の生誕地、金木町(現・五所川原市)の「川倉賽さいの川原地蔵尊」の地。恐山ほど知名度も規模も小さいが、死者に会いに、縁者が全国から集まるのは同じである。
 3月の晴れた強い風が吹く寒い日、こぢんまりしたお堂や周囲の林の中にある小さな祠ほこらの周囲にも残雪がところどころに見える。祠の中には数体の地蔵が色とりどりの前掛けをして陽を浴びている。お堂の中にも多くの地蔵が並ぶが、ここにもシーズンオフがあるのか、扉を閉ざし人影も見えない。
 プラスチック製の風車がカラカラと時を刻んでいる。暖かくなれば、多くの人々が亡くなった肉親や友人に会いに訪れ、にぎわうだろう。日常とはあまりにもかけ離れた地だとは思うが、人間の命が軽く見られる今の世、子どもも大人も一度この地に足を運んでみてはどうだろう。賽の川原地蔵尊は、テレビやケイタイの文化とは正反対の所にある。




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●2009年4月15日版掲載

漁村に日本の原風景 島根県・出雲市

 民俗学者、宮本常一(1907〜81)。瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島に生まれ、地球4週分に当たる約10万`の足跡を日本列島に残している。
 旅に暮らした日々は4000日以上。驚くことに旅で撮影した写真は10万点以上に及ぶ。今のデジタル時代と違い、36枚フィルムで換算すると約2800本とものすごい量である。
 宮本は若い人たちに言っている。「ハッと思ったら撮れ。オヤッと思ったら撮れ」と。宮本が撮っているのは芸術写真でもなければ証拠写真でもない。海岸の漂流物だったり、洗濯物であったり、普通は目を向けないものだ。何の変哲もない風景の中に時代が見えるとシャッターを押し続けた。
 私がカメラの仕事を選んだのも旅をしたかったからだと思う。一人旅や家族旅行、先輩や友人と多くの旅を経験してきた。それより人生そのものが旅の連続だったような気がする。その中でどれだけシャッターを押してきたのだろうか。シャッターは自信がないと押せない。私はまだまだシャッターを押す回数が少ない。宮本が10万回もシャッターを押し続けたのは、社会を見る目の力、意志があってのことだ。
 日本海に面した島根半島にある塩津は、わずかの土地を活用しながら漁村を形作っている。晴れた日の漁港には人影も見えない。漁船が青い海面に気持ちよさそうに浮いている姿は楽園のようだ。ここには日本の原風景がある。




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●2009年3月11日版掲載

雛も北前船に乗って 山形県・酒田市

 私にとっての東北の玄関は山形県酒田市になろう。“写真の鬼”と呼ばれた土門拳記念館があるからだ。秋田県や青森県に向かうにしても、一度は記念館に寄る。土門が撮影した仏像は静かな中で語りかけてくる。身が引き締まる。
 酒田市は最上川河口を中心に日本海航路が開かれ、北前船の拠点として繁栄と富をもたらす。中心となったのが日本一の大地主と謳われた本間家だ。元禄2(1689)年に初代が新潟屋を開業、三代光丘が千石船で商いを始め富を築いていく中で、農業振興や土地改良、水利事業など今で言う公共事業に努め、地域の発展に尽くす。地域貢献が認められ、藩主酒井家の信望を得、商人でありながら武士の身分を許されたのである。
 市内にある「本間家旧本邸」は当時の繁栄を今に伝えるものだ。三代光丘が本陣宿として1868年に新築し藩主酒井家に献上、後に拝領した。二千石旗本の格式を持つ長屋門構えの武家屋敷造りで、内部は商屋造りにもなっている。一つの建物に二つの建築様式を併せ持つのは全国的にも珍しいという。
 3月には「酒田雛街道」(4月上旬まで開催)として市内各地でお雛様が公開されている。北前船で京都から運ばれて来たものもあり、豪華で風格がある。
 日本海を旅して思うことは、明治以前の日本文化の豊かさだ。私たちは今、次世代に何を残すことが出来るのか、考えなければならないだろう。




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●2009年2月11日版掲載

烈風に耐え「春」を待つ 石川県・輪島市

 海岸の防波堤に立っていると、海からの風で体が飛ばされそうになる。両足で踏ん張って立っていようとしても大変だ。こういう強い風が数日吹き続くことも珍しくないらしい。
 ここは能登半島の中ほど、輪島市中心部から西へ約15`の上大沢地区。小さな川を挟んで集落がある。家が何軒ぐらいあるのかは、見た目には分からない。集落の外側は間垣(まがき)と呼ばれる高さ3〜4bの竹で囲まれていて、中がよく見えないからだ。
 数ヵ所に内と外をつなぐ入り口がある。内と外は別世界のようであり、寒いから人影もなく様子が分からない。家々は狭い道で結ばれていて、家々のつながり、人々のつながりがどこよりも強いように思える。都市社会では見ることのない風景だ。どれだけの人々がここで生まれ、外の社会へ旅立っていったのだろうか。若者がここから巣立ち、再び戻って来ることもあるのだろうか。そんなことを思う。
 地方は少子高齢化で活気をなくしつつある。限界集落と言う聞き慣れない言葉も耳にする。しかし今の日本で、都市が良くて地方が住みにくいということはない。地方から見れば都市が急激に悪化しているのが分かる。これからは地方の役割も重要になるだろう。
 ここ上大沢地区の強い風ももう少しすれば止むだろうし、春になれば心地よい浜風も吹くだろう。間垣も夏になれば日よけにもなる。人間我慢すること、耐えることも大事。その先には明るい話も生まれることだろう。



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●2008年12月10日版掲載

 浜はハタハタ一色 秋田県・北浦港

 島国の日本は四方を海に囲まれ、魚をよく食べる。私のように山育ちは子どものころ、新鮮な魚を食べる機会はほとんどなく、魚といえば乾き物か塩物が中心で、ニシンの麹漬けや塩ザケなどが一番の思い出である。今とは違い交通の便も悪く、保存方法もない当時としては普通のことだった。
 日本列島は南北に長いから、土地それぞれに取れる魚も種類も多く、特徴がある。南はフグに始まり、カニ、ブリ、ハタハタなどうまい魚が多く、特にこれからの季節は楽しみである。魚は体に優しく健康にも良いから、私のように年を重ねると、ありがたい。
 早朝の定置網漁に同行させてもらったり、魚市場や出港風景など、魚や海に関する撮影は、自然相手の仕事だからその都度条件も違い、こちらの思うようにはならない。自分の視点がしっかりしていないと、相手に振り回されて思うように撮れない。相手を見ることが始まりで、動きが見えてくるようになれば、カメラをのぞくことになる。市場などは仕事の邪魔にならないよう、時には許可を取ることも必要だ。あくまでカメラマンは部外者だから。
 秋田のホテルで、今がハタハタ漁の最盛期で浜は活気づいていると聞いた。早朝ホテルを出発し、男鹿半島の北の付け根、北浦港に向かう。小さな漁港ではハタハタ一色。それ以外のものは見当たらない。青いシートにものすごい量のハタハタ。撮影のポイントがなかなか決まらない。まずは大量のハタハタのアップの撮影から始めた。
ハタハタ

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●2008年11月12日版掲載

 土門拳 執念の現場 鳥取県・三佛寺


  開山1300年を迎えた三徳山三佛寺は、鳥取市から南西へ約1時間の三朝町にある。近くに三朝温泉や倉吉市がある。
 三佛寺を知ったのは、30年前にもなろうか。写真家、土門拳が病気で1度倒れてから三佛寺の奥の院、国宝・投入堂を撮影した話を聞いた時だった。当時土門は半身不随で車いすの生活だった。投入堂へは、助手が背中におぶさって山に登り、シャッターは自分で押せずレリーズ(シャッターをカメラから離して開放させる道具)を手にひもで巻き付けての撮影だった。
 重い病を持ちながらの命がけの撮影は何だったのかを知りたくて、土門の執念の現場をいつかは見たいと思っていた。そこで島根半島の旅の帰りに、投入堂の撮影を決行することにした。
 お寺の参拝と撮影のため、いろいろ調べていると、気合を入れて登らないと事故になりかねないと思った。
 県道脇の駐車場に車を止め、宿坊が並ぶ石段を登ると本堂が迎えてくれる。本堂の裏に登山事務所がある。ここから先の投入堂までは勝手に入れない。入山許可が必要だ。2人以上で登ること、山登りに適した靴か、などのチェックを受けて入山が許可される。
 標高差200bとはいえ、往復1時間半ほどの道のりはうわさ通り険しい。修験者の修行の地であることを思い知らされる。観音堂を過ぎるとようやく投入堂が姿を現す。登山者も45度くらいの傾斜の一枚岩の上で岩にしがみついての参拝となる。巨大な岩に抱かれた投入堂は実に不思議な姿で表現の言葉がない。1300年の年月と人間が持つ計り知れない何かに驚き、現代社会との違いを感じた。

三佛寺 投入堂


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2008年2月13日版掲載

 歴史ある港 今はひっそりと 石川・福浦港

  昭和30年、40年代の写真の世界は、白黒写真が中心で、風土や風俗を中心にプロ、アマ問わず土くさい写真が主流をなしていた。そのころ、日本を代表する写真家、木村伊兵衛が「秋田」を、濱谷浩が「日本海」をテーマに発表。「裏日本」と言われていた日本海側の農漁村の自然と厳しい生活環境が、グラフ誌や週刊誌の写真を通して、都市でも知ることができるようになった。
  当時、アマチュアカメラマンは会社の写真クラブや町の写真やさんが主宰するクラブを中心に活動していた。現代のように手軽にカメラを買えるわけでもなく、望遠レンズやズームレンズも無い時代。カメラ一台、レンズ一本、フィルムも節約して写したものである。家に帰れば、急ごしらえの暗室で引き伸ばし機と格闘しながら写真と取り組んだ。今にして思えば写真の世界が一番楽しくて夢のある時代だったと思われる。
  北陸では特に、能登地方の風土や祭りが、カメラマンの願ってもない被写体で、多くの素晴らしい写真が生まれた。写真の撮影地は石川県富来町(現・志賀町)の福浦港。1300年前から中国・渤海国と交流があった歴史ある港で、今はひっそりとしている。30、40年前の写真と比べても大して変わりなく、人影、船の姿も少なく、悪くいえば活力が感じられない。今の日本の地方からエネルギーが感じられなくなるのは寂しい限りである。


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 ●2007年12月12日版に掲載。

 荒波にもまれた絶景 山口県・角島

 下関から国道191号を北上し、50`ほどを過ぎると国道435号が右手に見えてくる。そのまま数`北上すると角島方面行きのサインが出て、そのまま海沿いに走ると沖に一直線に伸びる角島大橋が見えてくる。2車線ながら左右に海を眼下に見下ろしての走行は少し風でもあれば危険を感じるぐらいである。
 角島は奥に深く、周囲が17`もある大きな島。周囲は日本海の荒波にもまれた絶景が続く。磯釣りのメッカでもあり1年を通じてファンが訪れている。
 島の中央を4、5分も走れば先端の灯台に着く。近くにはレストランや特産品の店もあり、夏には海水浴客もたくさん訪れる観光の島でもある。
 灯台の歴史も古く、明治9(1876)年、英国人のブラントンの設計。御影石を使い美しい灯台である。灯台の周りには「つのしま自然館」やハマユウの群生地もあり、自然と触れ合える土地だ。
 灯台から100bぐらい離れた所に、下半分が土に埋まった形で鳥居が立っている。見渡しても近くに神社の影も見えず、一見オブジェのようでもある。鳥居の風景は日本独特のもので、お寺の山門と共に日本人には欠かせないものだ。
 以前、津軽半島にも海岸にポツンと立つ木製の鳥居があった。周りには人家も神社も見えない。聞いたところによると、海岸から少し離れた森の中にある神社に海から舟でお参りに来る人たちのために、神社の目印として立っているのだという。日本文化の奥深さを感じる。


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