高野山真言宗
金城山宝寿院
宝寿院は、承久2年(1219)、泉州武部の良舜僧正が数十名の従者と共に諸国化度の途中、持仏である文殊菩薩を安置し、七堂伽藍を建立。寺名を文殊寺とし宝寿院と呼称、従者50名に坊舎を造ったのが始まりとされている。応仁の乱(1467-1477)で災害を受けるが、明舜法印によって復興。しかし天正年間(1573-92)上杉謙信の兵火により伽藍を焼失、坊舎の衆徒も還俗し農夫となった。慶長4年(1599)、宗信大徳が諸国巡化の折、同所に足を駐め宝寿院を再興。これをもって中興第一世とする。その間、元禄14年(1701)、第10世光遍法印の代に中坪より梅ノ木に移転。以後、本堂をはじめとして参道、地蔵堂などを整備し、現在の山容ができあがった。文殊寺の地名は衆徒が還俗した際、その地を文珠寺村と名づけたことによる。
宝寿院の縁起