命の水  小糸

  
  弘法大師(こうぼうだいし)が、伏木(ふしき)村、小糸(こいと)村を 通って、なお けわしい道を、上流へと 足を はこんでいかれました。やがて、飛騨(ひだ)の国も まじかい 舟渡(ふなと)の 村のはずれに さしかかりました。

 冬が もうすぐ やって来る ころでしたので、まわりの山々のけしきは、いつもより さびしく、けわしく 見えました。
「雪の ふらぬまに、高山まで まいらねば なるまい」 大師は、そう思っていたに ちがいありません。

いそぎ足の 大師が、ふと 足を とめて、小首を かしげられました。どこかで 子どもの なき声が したからです。

 大師が、声の方へ 近づいて 行かれると、そこには うすぎたない 山の子どもが ないておりました。大師が わけを 聞かれると、子どもは、「冬のしたくの ために、 やさいを 買いに、里へ 行って来るよう言いつけられて来たが、とちゅうで お金を おとした」と いって、また しくしく なきじゃくるのでした。

  大師は あわれに 思われて「この たねを まくが よかろう。これは 年中 食べられる なの たねじゃ」と ふところから 五、六つぶのたねを とりだして 紙につつんで わたされました。

村人たちは、このたねを 大切に そだてました。それが 今では、村中に 生え広がり、「つきぬ菜」として 年中 食用に されています。


          



                    民話出典「大沢野ものがたり」



冬の神峡橋


舟渡のおじいさんの話


舟渡神社

  舟渡のお宮様

  時代でいうと平安中期で、一条天皇の代、尾萩野の別宮から分かれて、現在地に祀られてから約千年位経っていると聞いている。祀られた位置は、部落の高台で、眺めもよく、うっそうとした森の中。当時は荘厳だったろうと思う。当時の社名は八坂社で、御神体は石像であるが、しかと拝見したことはないが、素盞鳴尊だそうだ。昭和十年頃に、八坂社から素盞尊社に社名を変更した。

石段を上り詰めた拝殿の前の左右に、石灯籠がある。寄進年を見ると、寛延四年(一七五一)とある。

石段ができたのが、明治十二年四月(一八七九)。数えてみると、下は四段、中は三七段、上は四段あり、合わせて四十五段となる。私は、四十五段を上り、お参りすれば、しじゅうご気元よく、みんな仲良く暮らせるお宮さんだと、感謝している。

現在の拝殿や本殿は、明治二十四年頃に飛騨の但馬という腕利きの大工さんが建てたもので、お宮さんの後ろにあった、たいへん立派な一本の大ケヤキで、本殿を作ってもらったとのことだ。拝殿は、三段になっていて、中段の左右には左大臣、右大臣が安置されている。
                   
           左大臣                    右大臣

本殿の大きさとか、彫刻の立派さ等は、この辺りにはどこにもないもので、舟渡の誇りだと、年配者の自慢話をよく聞いた。

何時の時代も変わらないのは子孫繁栄と夫婦円満を願う心。この村に男根思想が残っていて、小規模ながら境内に祀ってあるのが何となく微笑ましい。

命の水  小糸

 
舟渡には、対岸の猪谷とを結ぶ渡しが、明治の中期ころまであったようだ。この時分のものは、綱越しといって、東西に一本の綱を張り、舟綱をこの綱に輪にして掛け、これを繰りながら渡る方法である。

 ある時、女二人連れの旅人が、船頭のすきを見てこの舟を乗り出し、舟綱を掛けることを知らぬまま、手繰りで出た。本流に舟が達したためこらえきれず、手を離したため、あっという間に河中の岩に当り、舟もろとも沈んでしまった。それを最後に渡舟がなくなったという。 「大沢野町誌」

命の水  小糸


神通川の東側にあり、神通川・宮川・高原川の合流点より北部に位置する。地名の由来は、明治中期まで綱越しの舟渡があったことによる説や、地内の船戸神(道祖神)の社によるという説がある。

江戸時代は舟渡村といい、加賀藩領だった。寛文十年(    )九十石とある。明治九年石川県、明治一六年より富山県に属する。

明治二二年から下夕村舟渡となり、昭和二九年より大沢野町舟渡となる。平成十七年四月、富山市舟渡に。

大正六年ごろ、神通川右岸を三井軌道が笹津から茂住まで開通。昭和六年対岸猪谷駅まで国鉄飛越線(高山本線)が開通。このため、舟渡地内に対岸猪谷から鉄橋をかけて、三井軌道は舟渡〜笹津間を廃止した。

昭和二三年、ここに神峡橋を架け、竣工前に、この橋を研修のため渡っていた県下小学校研究会の参加者二九名が、橋とともに落下し、尊い命を失った。