命の水  小糸


  むかし、飛騨(ひだ)と 越中(えっちゅう)の 国ざかいに 猪谷(いのたに)の せきしょが あった。すぐ そばを ながれる 神通川(じんずうがわ)には、はしが なかったので、川の むこうへ 行く時は、かごのわたしに のっていった。

ある時、飛騨から おおぜいの 人が かごのわたしを のりわたって、この せきしょへ あつまって来た。その中に、おやこ 三人の 手じなしが いた。

せきしょの やくにんは、三人の ようすを じろじろ見て、「そこへ 来た おやこ 三人、おまえらは、手じなしでは ないか。こっちへ 来い。」と よんだ。

「人の目を くらまして、金を むさぼりとるような 手じなしなら、この せきしょを とおすわけには いかん。」

手じなしは、「なんという おやくにんさま、わたしらは、ほかの 手じなしの ような おきゃくさまの 目を ごまかすような 、そんな ことは いたしません。ただ、ありのままの げいを いたします。」

やくにんは、「そりゃ、どんなことを するのじゃ。ひとつ 見せてもらうか。」

手じなしは、「それでは…一しょう入りほどの すずを 一本 かしてください。わたしども おやこ 三人が その すずの 中へ 入って ごらんにいれます…。」

やくにんは けらいに 木魚より 大きい ずずを よういさせて、手じなを する 台までならべた。

いよいよ 手じなしは、「これから お見せする 手じなは、たいへん むずかしいもので、みなさん 十歩ほど さがって くだされ…。」と いうて、黒い 大ぶろしきを 上から かぶせて、「たねも しかけも ない。」と いう 話をして、ふろしきを すずの上に かぶせた。

そして、「まずは 子どもから。」と いって、子どもを その すずの中へ おしこみ、つぎに 母親を 入れた。つぎに、自分が すずの中へ 入って、すがたを けして しまった。

やくにんは たがいに 顔を 見あわせて、これは ふしぎな 手じなだと いっているが、どれだけ たっても、手じなしは その中から 出てきません。

やくにんは、すずの中を のぞくだけでなく、しまいには、すずの中へ 火ばしを 入れたり、ずずを こわしたりするが、かげも 形もない。

ふしぎなことも あるものと 、話しあいを しておるところへ、あきんど(しょう人)が 入ってきた。

役人は、「これこれ、もしかすると お前は、かくかくの 男と 母親と 子どもの 三人の すがたを 見なかったかい。」と 言うと、あきんどは、「そうそう、たしか 三人づれの 親子なら、楡原(にれはら)の村の 近くで おうたことい。」と 言った。
やくにんは、「あー 手じなしに いっぱい くわされた。」     

やくにんは みな あきれた話を しておった という。

これが 手じなしの せきしょやぶりとして つたえられている ということだ。

                                       民話出典「細入村史」

  猪谷は富山県と岐阜県の県境にある。

地名の起こりは、イノシシが多く住んでいたことによる説と、「井の谷」すなわち、水の得られやすい地という説がある。

猪谷で、飛騨から流れ出た高原川と宮川が合流し、神通川と名前を変える。

昔は、飛騨と越中の国境の村として、政治上も交通上も重要な所であった。周りは高い山に囲まれ、どうしても神通川の淵を通らなければならないので、川の東側には、加賀藩の関所が今の東猪谷に、川の西側には、富山藩の関所が今の猪谷にあって、国境を行き来する人を厳重に調べた。

険しい神通川には橋がなく、綱を渡し、それに吊下げた粗末な籠に乗って渡ったという「籠の渡し場」が、今の国境橋近くにあった。

明治一九年、飛騨街道は、県道として改修され、大正年間に三井神岡鉱山の仕事が始まると、猪谷は、鉱石を運び出す重要な場所として、人がたくさん住むようになった。

昭和に入り、国鉄飛越線、国鉄高山線が開通し、猪谷駅前には商店街ができ、猪谷は急速に発展して行った。

伝説・民話のふるさと 片掛

富山市 猪谷