命の水  小糸
  1159年、武士の中でも大きな力を持つ「源氏」と「平氏」が
大きな戦いをしました。平治の乱といいます。

 この戦いは、平氏の勝利に終り、源氏の大将だった源義朝
(みなもとのよしとも)は、美濃の国青墓宿(現在の美濃赤坂)
に落ちぶれて身を隠しました。
しかし、いつの日か再び、京に上り、平氏を撃破りたいと、策を
練っていました。


その義朝の長男が、源義平(みなもとのよしひら)です。通称は、悪源太義平(あくげんた よしひら)といいます。義平は、飛騨の国白川郷から高原郷へと兵を集めながら、京に攻め入るための準備を進めていました。吉田(神岡)に住む豪族左兵衛は、義平の勇ましさに感心し、自分の可愛い二人の娘、姉の八重菊と妹の八重牡丹を、義平の妻にしてもらいました。

しばらくして、父義朝の死が伝わり、この期に平氏を討たねばと、義平は、京へ攻め入り、平氏と勇ましく戦いましが、平清盛に捉えられ、ついに、六条川原で打ち首になりました。年わずかに二歳でした。
                                          

このことを風の便りに聞いた八重菊と八重牡丹は、義平の魂をなぐさめようと思い立ち、二人だけで京へ上ることにしました。

そして、通りかかったのが、飛越の国境にある「蟹寺の籠の渡し」です。普通なら、村人を呼んで渡るのですが、自分たちの身分は源氏であり、京へ忍んで行く旅です。村人に頼むこともできず、二人でこっそり渡ることにしました。                    
        
                                               

先に、姉の八重菊が渡ろうとしたところ、途中であやまって、八重菊は千尋の淵に落ち、激流にのまれてしまいました。これを見ていた妹八重牡丹は、「自分一人が取り残されて、この世に、何がうれしいことか」と 自分も身を躍らせて、この淵に飛び入ってしまいました。しばらくして、二人の死骸は、下流の薄波の近くで浮き上がったということです。

村人は、京も行けず、夫の後を追った二人を、たいへん悲しく想って、「吉田八重菊・八重牡丹 名をばとどめた この谷」と うたいました。

その後、里人は、いかなる身の上の方でも、女・子どもが籠の渡しにさしかかった時は、両岸から綱を引くように、申し合わせたということです。


                                民話出典「細入村史からの再話」

籠の渡しとは

現在の籠の渡し跡

 「籠の渡し」とは、交通事情のよくなかった時代に、断崖や急流の両岸などに綱を渡して籠を吊り、その中に人や物を入れて渡したものをいう。飛騨・越中・越前・加賀などに多く見られる。

 蟹寺と谷(飛騨中山)に架かる籠の渡しは古来有名で、安藤広重の「六十余州名所図会」に紹介されている。「蟹寺の籠の渡し」については、猪谷関所館に資料などが展示されている。

 


こぼれ話       

 富山八代藩主前田利謙の生母自仙院は。文化七年四月二三日、自仙院は片懸村大淵寺参詣をかね、細入谷に遊び蟹寺村籠の渡しを見物した。

 文政九年四月二一日、富山九代藩主前田利幹の子三人は、供人二〇人余りを連れて、蟹寺村籠の渡しを見物した。

 天保八年八月一二日、富山十代藩主利保は家老等百人余を従え、蟹寺村の籠の渡しを見物した。

                           

江戸時代の頃の、神通川の渡場

 細入谷を流れる神通川は、美しい峡谷が続き、神通峡と呼ばれて、富山を代表する風景の一つになっている。
 この美しい風景を見に、たくさんの人が訪れているが、その昔は、険しい地形が、旅人を苦しめ、その証として、旧飛騨街道沿いには、石仏がたくさん並んでいる。
 当時、神通川には橋がなく、川を渡るには、舟で渡るか、吊り篭で渡るしか方法がなかったようだ。次のページにある地図は、江戸時代の渡場があった所を表したものだ。

舟の渡場   
       西笹津と東笹津の間
       岩稲と牛ケ増の間
       楡原と芦生の間 
       楡原と布尻の間 
       庵谷と寺津の間 
       猪谷と舟渡の間

籠の渡場  
       片掛と吉野の間 
       蟹寺と谷
(飛騨中山)の間
       西加賀沢と東加賀沢の間