その1
寺津の河童の話

むかし、ここの谷地に、水草のしげった小さい沢があったので、もとは小沢村といっていた。

ところが、今をさる二百四十年あまり前のこと、村の西方に大きな池があり、ここに大きな蟹の化物をかしらに、三匹のようかいが住み、夜な夜な、池をはい出して、村人をくいころす。池の岸辺にあった慈眼院というお寺のおしょうさんまで、くいころされてしまった。

富山市梅沢町の海岸寺の僧で、元気のよいのが、「人々のなんぎはすてておけぬ。しかも、仏につかえる僧までくらうとは、ごんごどうだん」と、月明かりの神通峡をのぼって、慈眼院をおとずれた。

門をたたくと、

「どうれ…」と出てきた僧。

「何用あってまいられた」

「わしは、この寺の住職のおいじゃが、おしょうは在寺かな」

「ちと所用があって、他出中じゃが」

「しらばくれるのもいいかげんにしろ。和尚は、蟹の化物にくいころされたと聞いた。あやしい僧め。さしづめ、お前は化物であろう。正体あらわせ」

「ワハハ…おじのかたきというわけか。ちょこざいな。お前も僧職にある身なら、わしの問答にこたえられるか」

「おお、なんでもこい」

「では…・ナンチのリギョとは、これいかに」

「ぐ問なるかな。南池の鯉魚。すなわち鯉なり。これをうけよ」




 はっしと、怪僧の頭に竹つえをとばした。屋鳴り震動。化僧は、いちじんのけむりとなって消えうせる。

 そのとたん、雷鳴とともに、バリッ、バリッと、天井をやぶって、針金のような真っ黒な毛が生えた足が、ヌーッと下りてきて、

「オテにコテとは、これいかに」と、また問いかける。

 僧は、足の化物をにらみあげて、

「笑止なると思わざるか。大手に小手とは鎚なり。なんじ、物品道具の身にあって、よこしまに、ねん力を持ちたるか。カーッ」

 たちまち毛むじゃらの足は消え、ゴウゴウたる大風、雷光をともなった大ぼう風雨が、今にもがらんをくずさんばかり。暗雲、寺をつつんでうねりくるい、その中から、ランランたる銀色の大目玉がかがやいて、いわく、

「タイソクはニソク、ショウソクロクソク、リョウガンはテンにつうず。これ、いかにやいかに」

「さては、なんじ、三怪の頭目なるか。正体すでに見えたり。
大足二足、小足六足、両眼天に通ずとは、みずからをかえり
みざる、大たわけ。蟹のごときは、酢の物となって、人の腹中

におさまり、万物のひりょうと化すべし。おろかものめがッ」

電光石火、僧の鉄けんが、黒雲の中へ飛んだ。      

ギャツという不気味なさけび声とともに、ピッタリと風雨がやんだ。

 翌朝、村人たちが心配して来てみると、

「大池にいってみてくれ。おそらく、鯉の化物がういていよう。
また、この寺の天井うらに、大工が忘れていった鎚があるはず。
おそらく、頭がはずれていよう。それから、沢をさがしてみてくれ。
蟹の化物がつぶされているはず」と言う。

 僧の言った通り、鯉がうき、首のとれた鎚があった。
沢には、はさみを石につぶされた大蟹の化物がしんでいる。
はさみに石、まるでジャンケンである。

 村人たちは、この海岸寺の僧の勇気をたたえて、慈眼院を再こう。蟹化退治の寺という意味をふくめて、蟹寺と名づけた。これが、蟹寺の地名の由来で、富山市の曹洞宗海岸寺には、この時の化蟹のこうらが、寺宝として由来を書いて、保存してあったという。

                                          民話出典 「立山千夜一夜」

 

海岸寺(富山市梅沢)の和尚さんの話 

富山市梅沢にある海岸寺

  「蟹寺の化蟹退治の話」は、この海岸寺を開いた法孫b瑛の話として、この寺に伝わっています。それは今からおよそ670年ほど前、鎌倉時代末期のことです。能登総持寺の僧だったb瑛は、諸国行脚の旅に出ました。途中、飛騨と越中の国境にある石原村観音院に滞在していた時に、化蟹の話を聞き、化蟹を退治し、村人を助けたという話です。それが蟹寺なのでしょう。

その後しばらくして、b瑛は、浜黒崎に海岸寺を建立しました。それが1341年です。

 それ以来、海岸寺には、蟹の甲羅が宝物としてずっと保管されていました。相当大きな蟹の甲羅だったのですが、残念なことに、1945年8月2日の富山大空襲の時に焼けてしまいました。今は、その話だけが伝わっています。

 海岸寺と細入村の人たちとの関わりは、その後も続きます。明治維新になって、お寺が取り壊されたのですが、明治五年に再興することになりました。その時の大工棟梁が、片掛村の田島助七郎という人でした。その時は、片掛の山から切り出した木材を神通川で運んで使いました。細入村とは深いつながりがあるお寺ですね。 

伝説・民話のふるさと  蟹寺

  蟹寺は猪谷から峠を越えた段丘面にある。越飛交流の要所に立地した村であった。宮川沿いのいわゆる西街道と、船津方面からの中道が籠の渡を渡って合流し、江戸期には、間兵衛(間平)という大変な有力者が存在した。

 中世の仁和寺文書に菅寺という地名があらわれ、これが今の蟹寺である。「かん寺、加賀沢・小豆沢・米のなる木を見て知らぬ」といわれたように、蟹寺は、水田の少ない村であった。平坦面に恵まれながら、水が得られなかったためである。猪谷から川沿いの道が通じ、宮川を橋で渡って、蟹寺を通らないで猪谷と谷・中山が結ばれるようになると、蟹寺は次第に寒村となっていった。

                                        「細入村史」