寺津の河童の話
その1

 今をさかのぼる三百八十年ほど前の天正(一六世紀末)のころ、この片掛の村へ、とつぜん、くっきょうな野武士姿の主従数人が、峠を越えてやって来て、宿を求めた。

 翌朝、宿を出たこの男衆は、洞谷の口でザルや
長おけで谷川の土砂をかき回しながら、すくい上げ、
何事かを語りあっていた。

 不思議に思った村の衆は、はなれた場所から、
おそるおそるながめていると、この大男たちは大声で、
「あった、あった。出た、出た。」とさけんだ。


 その後、しばらくして、宿へ帰った男衆は、宿の主人に「すぐ村の衆を集めてくれ。用件は見てからだ。」と、息をはずんでこん願した。

 主人は、半信半疑で、村中に伝えたところ、あまりに急なことではあったが、そうとう陽が昇ってから、集まって来た。

 親方様のいかめしい大男は、「お前たちに、いいことを教えてやるから、よく聞け。この山に金銀が、いっぱい出る。これは、今朝とってきたその実物だ。すぐ帰って、家にある銭をみんな持って来い。村中で十貫文ほど集まったら、われわれにあずけることだ。われわれは、その銭で山をほり、あとで、そのあずかった銭を、何層倍にでもして返してやる。実は、われらは、おそれおおくも家康公の命でここへ来たのだ。ここには、金・銀が山ほどねむっているのだ。しんぱいご無用。すぐ家へ帰って持って来るのだ。」と、谷で見つけた金・銀のかたまりらしいものを見せて語った。

 これを聞いた村人たちは、くめんして銭をあずけたところ、
親方とともの者は、すぐ飛騨へ向かったが、うち二人はしば
らく村に残って、毎日、山見を続けた。飛騨の茂住で、また
、片掛と同じやり方で、かね山を見つけ、大きな山師となった。
これが、後の茂住貞宗であった。


 その後、まぎれもなく銀がほり出され、寛文のころは、下町かいわいに三百戸の家が建ちならび、かまどのけむりが、たえなかった。

                                  伝説出典「細入村史」

 

 片掛は、東野と呼ばれる大きな段丘面の山すそに成立した集落であるが、庵谷と同じく峠下の集落として宿場となり、銀山の繁栄もあって、江戸期には庵谷以上の賑わいをみせた。地名の起こりは、東野の片方がえぐり取られたような地形に由来するという説と、片津の「お掛所」と呼んだことによるとの説もある。

 段丘面は畑地となっており、家並は、山すそをぬう街道に沿うものと、洞谷に沿うものに分かれる。江戸期の図には、集落の右方、谷に沿って長屋と水車小屋が描いてあるが、これが銀山の坑夫たちの宿舎および精錬場である。どちらかといえば、この集落の北の谷沿いに山方といわれた銀山関係者が居住していたのではないかといわれている。坑口はここから峠にかけた多数あった。

 集落の少し下流部には、対岸の吉野へ渡る籠の渡があった。

伝説・民話のふるさと 片掛



片掛のおじさんの話

 今から三百年ほど昔が、片掛の銀山が最も盛んな頃であったと伝えられています。その鉱口の跡が庵谷へ通ずる村道の脇に、幾つか残っています。大延寺から峠を少し上った所には、細入観光協会の「片掛銀山跡」の道標が立っていますから分かると思います。

 私は、冒険心が旺盛だった頃、穴に入ったことがありますが,人がひとりはって進めるくらいの広さしかありませんでした。大きな人はとても進める広さはありません。昔の人は小柄だったのでしょう。少し進むと、穴は下に向かい、穴の長さは、百メートルほどあったと思います。岩から鍾乳石が下がっている所もありました。コウモリもいました。岩肌はきれいに掘ってありましたよ。

 現在の国道41号線下の洞谷近くが、精錬の釜場であったと伝えられていますが、そういう跡は、今は何も残っていません。

 片掛銀山は、銀の含有率が低く、鉱脈も浅いため、明治維新の頃には廃山となったそうです。
茂住宗貞とはどんな人

今から四百年ばかり前の昔の話や。東茂住の村に、宗貞という鉱山のことに、たいへん明るい人がござったそうな。
 村の人たちはみんなこの人を、『茂住宗貞』と呼んでいたが、宗貞ははじめの頃は、越前の国(今の福井県)に住んでいて、もとは糸屋彦次郎と名のっていたそうな。

金森長近という大名が、高山に城をつくって、飛騨の国の殿さまになると、宗貞を越前から飛騨に呼びよせ、金山奉行という役につかせ、飛騨の新しい鉱山を、開くよう申しつけたんや。

金森長近も飛騨へ来る前は、越前の大野の殿さまだったので、宗貞を、前々からよく知っていたからやと。

 金森の殿さまのいいつけで、東茂住へやってきた宗貞は、持ちまえの頭と腕をはたらかせて、飛騨のあちらこちらの、山や谷を歩きまわって、金・銀のとれる場所をさぐり、多くの新しい鉱山を開いたそうな。

民話出典「飛騨総合ポータルサイトより」