小糸のおばあさんの話

この小糸集落は、今では、水道もあり、用水もあり、水にはそれほど苦労していませんが、この地域は、神通川東岸の丘の上にある集落です。神通川には満々と水が流れていますが、この地域には川がなく、畑をするにも水がなくてとても苦労しました。

  私が嫁に来た頃、「弘法の水」をバケツにくみ、天秤棒に下げて家まで運びました。飲み水や風呂の水など生活するために「弘法の水」は、本当にありがたい水でした。

  その頃は、畑には桑の木が植えられ、養蚕が中心でした。

  戦後しばらくして、「おはぎの」と呼ばれる台地一帯が開墾され、東猪谷地域から水を引き、広い田んぼができました。本格的に米作りが始まったのは、それからです。

 

 神通川東岸の河岸段丘に開けた集落である。小糸集落の畑地一帯は、小糸遺跡と呼ばれ、縄文中期・後期の土器や石器などが出土する。当時は自然条件に恵まれた地域であったようだ。

 江戸時代には小糸村と呼ばれ、加賀藩領であった。石高は95石(1670年ころ)。越中と飛騨を結ぶ交通路、飛騨街道(東街道)が通り、村人は、牛に荷物を積んで運び賃稼ぎをしたり、山の幸や神通川の鮎や鱒をとって暮らしていた記録が残っている。

 明治22年からは上新川郡下夕村大字小糸と称した。昭和29年大沢野町小糸となる。

 昭和35年、東猪谷、舟渡、小糸、伏木地域の人を中心に、尾萩野と呼ばれる河岸段丘周辺の畑地を水田化した。

 小糸集落には、江戸時代に加賀藩に直訴して村人のために活躍した大垣宗左衛門の石碑や彼をしのんで建てた「宗徳寺跡」(現在の公民館)、弘法の清水と弘法大師立像、八坂神社、小糸不動滝と不動尊などがある。

 文政4年、「義民大垣宗左衛門旧地処」と書いた石碑が、笹津村ほか13か村の百姓たちの手で、この小糸地内に建てられた。

 弘法大師(こうぼうだいし)が、八二〇年ころ 日本の国を めぐりあるいて、人々をおしえ、池や沼をつくって 社会のために つくされたことは、みなさんは 聞いたことが あると思います。

この弘法大師が、越中(えっちゅう)から 飛騨(ひだ)へ、
神通川(じんつうがわ)に そった けわして道をあるいて、
やがて、小糸の村に 入られました。大師は、一けんの家に 
たちよられ、

「水を一ぱいおくれ」と もうされました。

 この家の おばあさんは、日ごろから しんせつな人で
 ありましたので、
「これは、これは。たびのおぼうさんですか。
すぐ さしあげますから、しばらくおまちください。」といって、
おくへ入りましたが、すがたは みすぼらしいが、なんとなく
 仏さまのように ありがたい おぼうさんに 見えましたので、
家にくんである 水では もったいないと、手おけを もって、
出かけました。

ようやく、もって来た 水を 大師は うまそうに飲みながら,

「たいへん時間が かかったようだが、
  この水は どこからくんでくるのか」と たずねました。

おばあさんは、「はい、はい。おそくなりまして、あいすみませんでした。じつは、六ちょう(六百メートル)ほどの おくの谷間まで まいりませんと、おいしい水が わいておりません。それで ずいぶんおそくなりました。おゆるしください。」と こたえました。

大師は、たいそうよろこばれ、「村人の なんぎを すくうことに なろうから」と いって、ひしゃくにのこった水を、その家の にわに そそぎながら、なにかを となえられました。

すると、ふしぎなことに、しみずが こんこんと わき出てまいりました。この泉(いずみ)は、今でも、「命の水」とよばれ、小糸村で ただ一つの 泉として、 たいせつに つかわれています。

                                  民話出典「大沢野ものがたり」

 

その4
命の水  小糸
伝説・民話のふるさと 片掛

小糸の清水