第105話   舟倉用水          富山市船峅

 大むかし、神通川の下流流いきがもち上がって、船峅の台地ができました。今から一八〇年ほど前、そこは松や雑木の林、そしていばらやくまざさのしげる荒野でした。この地には、御前山のふもとから流れ出る二つの川(虫谷川と急滝川)といくつかのため池があるだけでした。そこに住んで田や畑や少しの田をつくっていた人々は、「用水さえあればここにたくさんの新田を開くことができるのになあ」と考えていました。
 そのころ、と波で十村役(村長さんにあたる)をしていた五十嵐孫作という人が、舟倉野を開こんする計画を立て、一七九六年(寛政八年)に加賀藩より開こんの許しをもらったので、孫作が測量・設計・工事の責任をもつことになり、その子のあつ好が父を助けました。
 また、算数学者の石黒伸由は用水のかたむきや水量を考える仕事、十村役の金山十次郎と十左衛門が会計と事務、大工の庄蔵は水準測定の見取図をつくる仕事にあたりました。
 太田薄波(下夕地区)というところを流れる長棟川から水を取り、神通川右岸の山腹を通って十四キロメートルの水路を引くという大仕事です。たくさんの村人が、たいまつをかざして山の中腹にならび、それを対岸からみてかたむきを計算したりしました。測量と設計だけで十三年かかり、一八一〇年(文化七年)からようやく工事に入ることができました。
 山がけわしいので、岩場をほりくだき、幅五尺(一.五メートル)深さ3尺(一メートル)の石身の水路をつくる仕事はなかなかはかどりません。たがねやかなづちなど、道具はたった三種類、巨大な岩石にぶつかると、そこに草木を集め、燃やして熱し、水をかぶせていだいていくという方法をとって、工事か進められました。近くの山村から多くの人々がかり出されました。中心になった人たちは、昼も夜も睡眠を忘れるくらいなって働きました。
 七年の年月が流れました。その間にも五人の死者とたくさんの負傷者が出ました。費用もたいへんなものでした。計画の三倍以上の費用がかかったといわれています。そのため、後になって用水の計画者は加賀藩から罰せられたという話も伝わっているくらいです。
 一八一七年(文化十四)用水に初めて水が通り、少しばかりの田に植えつけがされました。秋になってりっぱな稲が実り、大きなお祝いの宴会が直坂で開かれました。工事に参加した人たちの喜びはどんなだったでしょう。
 旧船峅村のうち、舟倉新・横どい・直坂・中野・二松・万願寺新・大野・松林・小黒新・沢の十部落の田を、このかんがい用水がうるおします。水を分けるに当っては、分けへだてなく公平にということがまず考えられます。直坂地内の風宮不吹堂のわきに三つの分水があり、ここから寺家方面、二松・万願寺方面、横どい・大野方面へと用水が分かれて流れます。
 不吹堂は一八九〇年(明治二十三)に風害をおさめる神をまつって建てられたものですが、後の人々がここに舟倉用水の記念碑をつくりました。その碑は、用水完成に力をつくした人々に対する、農民の永遠の感謝の気持ちを表したものです。また、工事のぎぜい者をとむらう石碑もできています。
 舟倉用水は何度か災害に会い、改良されてきました。一八五一年(嘉永三年)の大災害の時には椎名道三が活やくしました。
 一九一四年(大正三年)の大洪水には、その害を元にもどすのに、五千八百人の人夫と四万俵の土だわらを使ったそうです。
 現在では、船峅土地改良区の人たちが用水を管理し、水路は全部コンクリートでかためられました。そこを流れる豊かな水は、四百ヘクタールもの水田をうるおしています。



                         
「大沢野町誌 上巻」
大沢野町教育センター「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」