第106話 船峅地区の地名の由来 富山市船峅
船峅は、古代文化の発祥の地といわれ、「船峅」の初見は正安三年(一三〇一)である。
小黒
寺家、直坂と共に開拓が早く、神子田、神鋤などの信仰名の小字もあり、小黒となった。
松野
昔は広い松林があり、大久保や塩の移住者によって開かれ、松林と塩野が合併して松野になった。
万願寺
昔は相崎村と呼ばれ、五〜七百年前に万願寺という寺があって霊験あらたかに仏像がおいでになり、千万の願いも聞き届けられたので寺の名を残したいと名づけた。
万開
万願寺の東方の高台に昭和二十一年七月から入植が開始され、万願寺開拓とその通りの村名となった。
二松
大きな松の木が二本あった。一本は元の船峅支所前にあり、もう一本は万行寺の境内にあったが、第二次大戦の際、松根油を採るために伐採された。二本の松がなくなってから、二本松の地名が二松となった。
野田
開墾地名で、野沢はもと野沢田開といわれた。
坂本
昔、明覚寺が坂本開拓の下にあった。そこへ行くのに西から行っても、東から行っても坂があったといわれた。
大野
昔は広々とした野原だった大野と、沼地が多くあった沢が合併して大野となった。
横樋
船倉用水ができる前、寺家の大池から樋を使って水を引いたことからつけられた。(原長田用水)
市場
昔、船峅繁盛の頃、物品売買の市が立ったところ。帝竜寺が三百余の寺坊を束ねていた頃であろう。
直坂
判然としない。縄文遺跡発掘地であったり、町屋敷、鍛冶屋敷などの小字名があり、狐塚の信仰名もあって、寺家と共に早くから開けたところであろう。
寺家
帝竜寺をはじめ多くの寺坊があり、帝竜寺がその本山であった。寺家は中世の寺領につけられた遺名である。
船峅の地名も時代によって変化しています。いつごろこんな地名ができたのでしょうか。また、これらの地名には、それぞれに歴史上深い意味があり、祖先のロマンも秘められています。私たちの五感を働かせながら、意味や五感に迫っていこうではありませんか。
船峅の大地には、美しい山や川があり、肥沃な田園風景が広がっています。また、東西南北には、各地区を結ぶりっぱな広い道路が整備されています。今日、精神的にも物質的にも豊かで便利になり、生活が向上してきました。これは、一朝一夕ではできないと思います。
船峅の地域で、また、遠くから古里を離れた方々の中にも、命をかけ努力を惜しまず、郷里の発展のために尽力された方も多くおられます。
こうした地名から、祖先の姿が浮かび、息づかいが聞こえてくるようです。
「船峅のむかしがたり」