第10話   白屋秋貞の話                           富山市猪谷




 
都では、桶狭間に勝利を得た信長が、義昭将軍を擁して天下に号令しようとしていた頃である。
 幾月かの間は、雪の下に閉じ込められていた飛越国境の山々にも、日の光が暖かくなると共に、一日一日と少しずつ緑色が加わっていく様に見える。神通川の川淵の断崖の上を、細く長く通っている道も、雪が解け始めると、それにつれて、つるつると滑りやすいぬかるみになる。その細長いぬかるみの道を、飛騨から越中へ、白屋秋貞の越中経略の軍勢が、毎年のように、川に沿って攻め入って来たのである。
 この年、元亀二年も、一千の軍勢を率いて、西笹津の対岸にある猿倉城を根拠にして、城生城を攻略しようとしたのである。多年、彼は、飛騨の山地から肥沃な越中の平野を望んで、機を見て越中全土を攻略しようとしていた。
 この城生城攻撃では、川の崖を前に控え、後ろは山続きの堅城も、背後からの攻撃に、城兵が地の利を占められて危うく見えた頃、上杉謙信の援兵によって、秋貞攻撃軍は遂に退却を余儀なくされた。秋貞は、この後、謙信に従うようになった。
 翌年、元亀三年、両岸の山々の紅葉と映発する様な美しい物の具をつけた鎧武者の幾一千騎かが、旗指物を風になびかせながら、神通川の上流へ上流へと上って行く。
 謙信は、幕営に出迎えのためと道案内を兼ねて、飛騨から面会に来た白屋秋貞を招いて、低く雲の漂った山の谷あいを指さしたり、川の上の獣か何かが、うずくまっている様な赤黒い岩に激しくぶち当たっては流れて行く紺青の水の色の方を振り向いたりして、傍の秋貞に、戦陣にある大将とも思われないくらいに、のびのびと話しかけた。
 彼、謙信がのびのびとした態度でいるのは、戦いの前途を楽観しているというよりは、こんな危ない山道、細い崖道を通って進む戦時行軍中の間にも、彼の心情の底に潜んでいる自然愛好の心持の表れだと言えばよいのであろう。
 道はいよいよ細く、雲はいよいよ低くなって、騎馬の部隊は、困難を感じ出したので、一同は馬を下り、兵糧その他は、この地方に多い牛に負わせて、雨露とも雲ともつかぬ漠々とした中を、絶壁のふちを、猪谷から加賀沢へ、更に、小豆沢へと、幾人かの兵と馬を神通川の川底に犠牲にして、飛騨の白河城に入城した。
 秋貞は、その頃、北越の名将と言うよりは、今もうじきに、信長と一戦を交えて、天下を統一しようとその意気に燃えていた謙信の先陣として、飛騨へ入国し、その余威を受けて付近の平定に従った。この時が、一代の得意の時代であったことと思われる。
 その後、幾年かは過ぎて、天正六年の春を迎えた。謙信は、京都にいる信長と雌雄を決しようとし、領内の武士にふれを出して、六万の軍勢を集め、戦備を整えて、三月十五日をその出発の日と決めたが、その二日前に、病で春日城に没した。そのために、信長は、「謙信亡き後の上杉、取るに足らず」と思ってか、佐々成政に越中を攻めさせた。
 秋貞は、謙信の死後、自己の身の安全からか成政に従った。成政は、越中平定に従うとは言うものの、新川三郡には、謙信の子の景勝という武将がいて、魚津城を本拠にして、成政との間に攻防が繰り返された。秋貞は、猿倉城を拠点にして、佐々のために謙信方に備えた。
 天正九年二月、信長は諸州の騎馬を集めて、天子の御覧に入れようと計った。成政もその儀式に参列のために京都に上った。この虚をついて、魚津城にいた景勝の武将河田豊前は、ひしひしと猿倉城に攻め寄せていた。周囲わずかに一里にも足らぬ小城を幾千の軍勢が潅木を伝わり、葉陰に隠れて、城の上まで押し寄せて、一気に攻落してしまった。
 秋貞は、暗闇にまぎれて、二人の子と城を逃れ、敵の気を抜いて、向こう岸に舟を出して渡った。闇を利用して、逃れるだけ逃れねばならない。ほうき星のように気味の悪い赤い火を噴いては、「ダーン、ダーン」と、山にこだまする鉄砲の響きを、敵のあげる勝どきを後に聞いて、道の分からぬ草薮の間などを、木の切り株につますきながら、川上に向かって逃れて行った。
 もう何里を走ったか分からなかった。その内、東の山の雲がいやにはっきりすると思っていると、だんだん夜が白んで来て、川風が、辺りに少し積もった雪をまともに吹きつけたので、思わず後ろを向いた。とたんに、向こう岸の林の陰から、耳をつんざくような銃声が上がって、すぐ下の堤に二つ三つの砂塵をパッパッと上げた。
 「事急なり」と思った秋貞父子は、雪を掻き蹴って、傍の木陰に身を寄せた。と、又、魂を奪うようなすさまじい銃声が二、三発響き、秋貞の体を打ち倒した。
 秋貞は、以前は、謙信を案内して、この土地を揚々として飛騨に入り、今度は、敗戦の憂き目をみて、ここに戦死した。こうした因果な最期について、わが身の上に対しての悔恨の心持で、眼を閉じたのだろうか。「自分が佐々方に味方したのは、上杉公に味方した時と同じ表れで、一日も早く信長公の手によって天下が平定され、尊王の精神によって、上皇様に対し奉り、下万民のため善政を望んだからだ。ここで戦死しても、何ら悔いることはない」と案じて死についただろうか。
 ともあれ、こうして、わが郷土の土地に戦死した秋貞の一生は、戦国時代にありながら悲惨な武士の最期の一つであった。
 (猪谷尋常小学校 高等科生徒の作文教材)
  「村の今昔」細入歴史調査同好会編