第14話 籠の渡し 富山市蟹寺
ここは飛越の国境、際立った山々は深い霧に包まれて、川音だけが心に寒く響いています。時雨に濡れた細い街道は、やっと紅葉しかけた谷間をぬって見え隠れして続いています。
時は永暦元年、秋の朝明け少し過ぎ、此の飛騨路を越中さして急ぐ二人の年若い女づれ、脚絆草履に身を包んでの旅姿で、気の毒なほど疲れた様はさも哀れであります。時々、物に脅える様に後ろを振り返り、振り返り、助けいたわり合ふて急ぐ様子は只人ではないらしく、疲れやつれた旅姿ではありますけれども、何処とは無しに気品の高さが、くっきり辺りの景色に浮いています。
御姉上様、あんなに騒ぐ音が近づいて参りました。さぁ御急ぎ致しましょう。
折角、此まで人目逃れて落ちたものを、もう越中も間近い所で負手に捕えられなくてはならぬとは、あぁ情けなや。
いや御姉上様、そんな不吉な事をおっしゃいますな。もう越中迄は三〜四町、籠の渡しを越えたなら、どうにか逃げおうせる事も出来ましょう。気を落とさずに急ぎましょう。
互いに励まし、よろめきながら、更に気を立て直して急ぎます。
これより先、平治の乱に平家一族の為に散々に敗られた源義朝は、残り少なくなった味方の兵を引き連れ、都を落ちて尾張の国まで逃げ延びました。義朝は此処で兵を募って、もう一度都へ攻め上ろうと考えたのです。そこで長子の悪源太義平も父の命令で、北国路で兵を募る事になり、先ず美濃から飛騨の国へ進みました。間も無く、父義朝は元自分の家臣であった長田忠致の為に、尾張の国で非業な最期を遂げられたといふ報せが、飛騨路で義平の耳に入りました。義平の驚きは一通りではありませんでした。
その上、折角募りかけた兵も、皆、力を落として散り散りになってしまいました。さすが平家の人々に鬼の様に恐れられていた悪源太義平も、最早、兵を募る意気も無く、最後の手段としてこっそり都に忍び込み、清盛の首を窺おう考えて、姿を変え、越中を経て都へ上りました。
後に、とうとう運も尽き果て平家の武士に見明かされ、近江の国で捕えられました。そして天下に聞こえた荒武者も二十歳を最期として六条河原の露と消えました。
今しも飛騨路を急ぐ女旅人こそは、平家の追手に追われて義平の後を慕う妻とその妹であります。漸く飛騨の中山に辿り着きました。川を隔てて越中の国、蟹寺村です。岸に立てば、底知れぬ遥か眼の下に宮川の流れが白く渦を巻いています。藤蔓を寄り合わせた怪しげな綱が細長く向うの岸に引かれています。
丁度、籠は岸近くに乗り捨ててありますが、一度に二人は乗れそうにもありません。急ぐ心に、川向かいの渡し守を声の限りに呼びましたが、川の瀬音に邪魔されてか、心安らかに未だ眠りについているのか、出でくる様もありません。
さぁ姉様、急いで先へ御乗り下さいませ。自分で手繰って渡れない事もありますまい。川の上まで出られたらもう大丈夫でしよう。今の内に早く、早く。
だが、お前一人をこちらの岸におくのは・・・。
御心配下さいますな、早く。あれ、あんなに追手が近づきました。
では、御先へ御免、運良く共に渡れる様、八幡様・・・。
籠の懸綱試しもせず、急ぎあわてて乗りました。追手の影は次第に近づいてきます。あやしげな手つきで綱を手繰ってゆく姉。我が身の危険を忘れて、姉の身を気遣って立つ妹、またしても追手の響き、姉も妹も只一生懸命です。
あっ、焦りに焦って綱を手繰っていた姉の籠は、綱を離れて宙に舞って落ちて行きます。懸綱の根本が切れたのです。狂い出した様に驚き叫んでいる妹の声に送られて、姉の姿は宮川の急流深く消えて、再び見えませんでした。追手はもうすぐです。頼りの姉も今はなくなったこの世に、敵手に落ちて永らえるより、冥土の旅も御姉上様と、目を閉じ、合掌しばし、谷底に身を躍らせて、姉の後に続きました。
「細入歴史調査同好会 村の今昔」