第28話 畠山重忠と丹後の局 富山市楡原
畠山重忠は鎌倉時代の逸材で、智仁勇の三徳を兼ね備えた名将として有名である。
重忠は武蔵の人であって幼名を氏王丸といった。父が畠山荘司であったので荘司二郎と称した。元来重忠は平家方の武人であったが、源氏とも大変縁故が深かったので源氏に味方し頼朝に帰属した。
重忠は石橋山の戦いを始めとし、数々の戦功を立て其の行動は、武人の典型とされた。
頼朝の妾に丹後の局という女人があった。局は頼朝の寵愛を一身にあつめ身重になった。
そのとき、妻政子には未だ実子がなかったので、嫉妬にもえる政子は、男の子でも生まれたら後嗣問題など起こるのを恐れ、局を殺害して後顧の憂を断ちたいと密かに謀を企てた。重忠公は情深い人であったのでこれを不憫に思い、密かに局に知らせた。局は驚いて諸国流浪の旅路についた。斯くする中に月満ちて、摂津の住吉神社で人の情にすがり産み落としたのが男の子であった。この子こそ小治郎朝重で、住吉家の二代目となり幼名を吉寿丸と呼んだ。局は子供を伴い永い年月を旅で過ごした。
ところがその後、重忠も頼朝夫妻や時政にいたく憎まれ、今は鎌倉にいないとの風聞を耳にした。局は何とかして「一目たりとも御目にかかり厚恩を謝したい」と探し廻る中、楡原に侘住いして居られることを聞き、なつかしさのあまり、足も地につかぬ疲れた旅を重ねて漸く楡原につくが、慕う重忠はすでにこの世の人でなかった。
局は悲歎の涙にくれ墓前にささやかな庵を結び、髪をおとして尼となり朝夕の供養を怠らず、子孫を永くこの楡原に留めることにして果てた。時に承元三年五月三日であって、住吉家の初祖清光尊尼はその人である。
小治郎朝重は、豊後守の娘を娶り二代目を相続し、その後綿々として相継ぎ、現在の住吉祐蔵は三十八代目に当るという。
重忠は頼朝にうとんぜられて楡原に落ち来りし時、真言宗の一宇を建立した。この寺は後に法華宗に改宗し寺号を改めた。今の不怠山上行寺がそれである。
頼朝が、かつて重き病気に罹れた時、人あり「これには犀の生角を削って作った薬を用いれば平癒せん」と。
頼朝、これには勇武にして力量、衆にすぐれた重忠を命じた。公は神通、寺津が淵に棲む犀を苦心の末得て之を献上した。頼朝は「これは死犀より得たものだ」と言って不興のあまりこれをつき返した。
重忠は甚だ遺憾に思い、この犀角に、三帰明王を刻み常に兜の中に収めて戦場を馳駆した。この仏像は上行寺の什宝として大切に保存せられ、毎年八月十五日御虫干法要が厳粛に行われている。
また、重忠の墓前祭は、毎年七月二十二日の命日に村人が参詣して供養にあたっている。
「細入村史」