第2話  じいちゃんのトチの実拾いの話  富山市加賀沢

 

 「加賀沢、蟹寺、小豆沢、米のなる木はまだ知らぬ」という歌を聞いたことがあるだろう。神通川のずっとおくの、山で囲まれて、田も畑もあまりないこの辺りの村では、昔は、米やこくもつが、ほんの少ししかとれなかったのだよ。よそとの行き来もふべんであるし、今から考えると、笑い話に聞こえそうな話だが、食べ物に、いろいろと心配と用心をしたものだ。

 その一つが、村の家の数を決めて、それ以上家をふやすことができないことにしたのだよ。また、家々の中で、いらない者は、皆、旅へ出してしまったのだ。もちろん、よそから来た者には、家を建てさせなかったのだよ。

 山のトチやクリの林は、全部「共有」といって、村中の仲間のものにしたのだ。ケヤキのような木は、全部切って、トチやクリの木ばかりにして、育てたものだ。今になって考えてみれば、トチの代わりにケヤキにしておいたら、ここの村は、金でうまっていたろうにね。

 その頃、トチの木を切った者は、バツとして、三年の間、ただで、村の雑役をつとめたものだよ。

 トチの実は、今こそ、食べる者も拾う者もいないけれど、昔は、ここの大切な食料だったわけだ。拾ってきたものを水につけて、虫を殺し、かわかしてたくわえ、冬になって、つぶして粉をとり、だんごにして食べたものだ。

 今なら、とても食べられるものではない。キビだんごより、まだまだまずい。それでも、昔は、実にうまかったのだ。今の者は、口がぜいたくになってしまっているのが、もったいない気がするね。

 ところで、このトチの実の拾い方は、なかなかめずらしいやり方だった。お前たちは、これを聞いて、「おかしい」と、笑うかも知れないが、それは、おかしくも何ともない、真剣なことだったのだ。

 一つ、トチの実拾いの話を聞かせてやろう。

 クズの花が紫色に咲いて、馬草刈りに、朝早く、村の上の山道を通ると、トチの実が、黒い顔をして、道ばたに、クルクルところがり出ているのだ。谷川の小ジャリにしずんでいるものもある。顔を上げて見ると、口を開いた皮の中から、顔をのぞかせた実が、トチ林の大きな、どの木にも、いっぱいなっているのだ。

 カンカンと日照りにあぶられて、ボサン、ボサンと、草原へも、やぶへも、ぎっしりまいたように落ちるのだ。山のくぼ地などには、あけたように落ちている所もあるのだよ。

 それでも、それを、たった一つであっても、拾われないのが、村のオキテだ。拾ったらたいへん。三年の村雑役だ。拾う前に、その実を、一ヶ所へ、かためておくこともできないのだ。

 いよいよ、枝の上のトチの実が、大方落ちてしまった頃を見はからって、村の名主さんから、「トチ山は、何日だ」と、おふれが出るのだ。さあ、村の人々の胸はおどる。カマスを整えるやら、じょうぶな袋を用意するやら、荷なわを作るやら、もも引きをぬうやら、いく日も前から、家ごとに、その用意に、やかましいことだ。

  さあ、前日になると、お祭りのため、年中食べることのない白いご飯の弁当を作って、カマスに入れ、特別に、しっかりとくくりつけるのだ。明日の大競争に負けぬようにと、細心の注意で、必要な用意を終えるのだ。腹ごしらえにいたるまで、すっかり整えて、昼の内から、皆眠る。働ける者は、子どもも女も老人も、皆眠るのだ。

 一家から何人行っても、かまわない決まりだ。家族の多い家は、よけいに拾わねば、冬越しができないわけだからね。「何人行ってもいい」とは、公平に決めたものだ。

 やがて、名主さんから決められた時間までに、村のお宮の石だんの所を、出発点として、全部がせいぞろいする。名主さんの合図の前に、その線を越えてはならぬ。ひしめきあい、わめきあって、合図を、今や遅しと、待ちかまえているのだ。

 せいぞろいした者は皆、もみあううちに、カマスをずり落として、負けてはならぬと、カマスを背負いなおしたり、ワラジのひもをくくりなおしたり、はちまきをかたく結びなおしたりして、手につばつけて、自分の走るべき道をにらみつけているのだ。だれもが、どの方向から林へ分け入り、どこへ出るか、胸の内には、十分に作戦ができているのだ。

 名主さんが、カシの木の厚板をつるして、今にもカシの木を打つ用意を始めた。

 カン、カン、カン、一度にかん声がわき上がった。

 ころぶ者、つまづく者、押す者、走る者、何とも言われぬにぎやかさ。わきで見ている名主さんは、さぞかしおもしろかったろうが、他の者は皆、真剣だ。またたく間に、クモの子を散らすように、林やヤブへはい上がってしまった。

 だれもが、無我夢中で、トチの実を拾っては入れ、入れては拾う。かけずり回って、拾えるだけ拾うのだ。たちまち、広い林も、すっかり、拾いつくされてしまった。中には、棒きれやカマで、芝やチリまで、かきさがしている者もいる。そして、もうトチの実はなくなったと思うころには、大切なえものの袋を背負って、それぞれが帰って来るのだ。

 てんでの家の前には、大きなおけをいくつもすえて、それに、拾って来たトチの実を入れて、水びたしにして、どこの家でも、「何ばい拾った」と、得意がったり、喜んだりしたものだ。子どもたちは、連れ立って、一軒一軒見て回ったものだよ。

 そんな大切な食べ物も、今では、ほんのわずかなモチに入れるために、拾う家が、少しあるくらいだ。世の中も変わったものだね。

 お前たちも、お宮さんの森に、トチの実がたくさん落ちていても、おもちゃに拾うのが、関の山だろう。無理もない。汽車が、けむりを上げて、一時間で、富山の町から、かけこんで来るのだからなあ。     

 

 婦負郡小学校長会郷土読物

 「猪谷尋常小学校4年生」(昭6)からの再話