第34話 長兵衛とお蔵屋敷 富山市二松
今から二百年ほど前、たくさんの米俵を積んで、舟倉野から東岩瀬野の海沿いにあるお倉屋敷へと運ぶ、長兵衛の一行があったと。石ころの多いでこぼこ道を、大きな車輪の音をひびかせながら、舟倉米を積んでいかれたと。
やっと半分ほど来たとき、
「さあ、飯だ、飯にせんまいけ」と言って、一行は梅干しの入った大きな焼き飯(おにぎり)をさっさと食べたと。それから、ボロボロに破れた草鞋を脱ぎ捨てて、腰に吊るしておった新しい草鞋にはきかえたと。腰にまだ一足残っているのは、帰りの分だといね。
「さあ、あと半分だ、元気出そう」
みんなは、お互いに声を掛け合ったと。ようやく、東岩瀬野へ着いたのは、お日さまが海の水平線に沈む頃だったそうな。
ところが、東岩瀬野の番人たちは、
「舟倉米は品質が落ちている」と言って、値段を下げたといね。長兵衛たちは、くやしくて残念に思ったと。
舟倉野に帰った長兵衛たちは、毎晩村人たちと語り合ったと。
「もっと良質のお米をたくさん採れるようにするには、どうしたらよいかの」
村の人たち全部で考え、知恵を出し合われたと。それからというものは、まじめで人情のあつい舟倉野の人たちは、戸口に行灯をともして、おそくまでよう働いたといね。
その甲斐あって、一年一年、たくさん良質のもちもちしたお米がとれるようになったと。舟倉米はおいしいという評判が、加賀の殿様の耳に入ったので、その頃繁盛していた二本松に、お蔵屋敷と番屋敷が建てられたと。
千三百坪の敷地内に、お蔵屋敷の広さは、およそ五百八十坪、番屋敷の広さは、三百九十坪と伝えられているそうな。お蔵は四方が土塀で囲まれていたと。お蔵が近くなって喜んだ舟倉野の人たちは、長兵衛を神様のようにあがめ、うやまったと。
明治時代の初め頃まで、長兵衛をまつる「大長祭」が盛大に行われていたんだと。お蔵屋敷、番屋敷のあと地は、二松のお宮さんの西側にあったと。現在は、大毛利俊夫さん一家が住んでおられると。
参考「二松のあゆみ」話者 大毛利俊夫
「船峅のむかしがたり」