第42話  畠山重忠公の墓所によせて         富山市楡原



 この高台は「館」といわれ、戦国期の永禄十二年(1569)能登の守護畠山義則が楡原付近一帯を治める居館のあった場所である。そして、いざ戦乱になると、背後の大乗悟城と南の楡原城に立て籠もった。
 重忠墓所について奉行所からのお尋ねに対し、元禄九年(1696)村役人は、「すでに真言宗であった頃からを菩提所として弔ってきたと伝え聞き候」と答えている。ちなみに、墓地は昭和十五年までは上行寺領となっていた。

 往時からの言い伝えによると、将軍源頼朝が重病にかかったとき、易者が、「生きた犀の角を煎じて飲むと病がなおる」と言上した。これを聞くや頼朝が忠誠勇武な重忠を呼び、犀角を直ちに用意するように命じた。
重忠は急ぎ、犀が棲んでいるときく神通川の寺津ケ渕にたどりつき、法雲院住職に祈祷を願って水中に飛び入った。死闘の末、息の根も絶えだえの老犀の角を取り、早速頼朝公に献上した。ところが、かの易者が角を見るや、「これは死に犀の角なり」と重忠につきかえした。
 このことから、重忠は頼朝の不興をかい、逆臣の身に一転してしまった。重忠は憤まんやるかたなく、悶々の、情を抱きながら犀角を懐に楡原の里に戻ってきた。
 重忠公は、ここ楡原の館で犀角に「三歸明王」を彫って自分の守り本尊とし、謹慎の日々を過ごしていた。ところが、重忠が楡原にいるということが鎌倉方に知られ、重忠主従六名もろとも追補の者の手によって、館の東の御前山で非業の死を遂げた。時に元久二年(1205)六月二十二日、重忠四十二歳であった。

 注 文献によると、重忠は北条義時の攻めにあい、元久二年の同日、武蔵二股川(現 横浜市旭区)で戦死とある。
 考えをめぐらしてみると
 一、能登守護職畠山氏の祖先祭礼の一つとして、重忠を弔ったものか、或いは楡原の地で戦死した一族の将を葬った塚とも考えられる。
 一、重忠伝説は真言聖らによって、不運な武将であった重忠追善供養のために、丹後の局の話しとともに語り伝えられてきた可能性がある。
 なお、基壇の小石塔群は近くから寄せ集めたものであろう。
     
詳細は「細入村史」参照
        
「楡原 畠山重忠公墓掲示板」