第4話 「蟹寺 籠の渡し」伝説              富山市蟹寺



 平安時代の終わり、武士たちが、貴族たちにかわって、次第に力を持ち始めたころのお話です。
 一一五九年、武士の中でも大きな力を持っていた 「源氏」と「平氏」が、
大きな戦いをしました。平治の乱といいます。この戦いは、平氏が勝ち、負けた源氏の大将だった源義朝は、美濃の国、青墓宿(現在の岐阜県美濃赤坂)におちぶれて、身をかくしました。しかし、いつの日か再び、京に上り、平氏を打ち破りたいと、考えていました。
 その義朝の長男が、源義平です。いつもは悪源太義平と名乗っていました。
 悪源太義平は、飛騨の国の白川郷から高原郷へと兵を集めながら、京に攻め入るための準備を進めていました。
 吉田(神岡)に住む豪族、左兵衛は、悪源太義平のいさましさに感心し、自分のかわいい二人の娘、姉の八重菊と妹の八重牡丹を、義平の妻にしてもらいました。(この時代は、お殿さまにはたくさんの奥さんがいました。)
 しばらくして、父、義朝が亡くなったと聞き、悪源太義平は、今こそ平氏をうたなければならないと決心して、京へ攻め入りました。義平は、平氏と勇ましく戦いましが、平清盛にとらえられ、ついに、六条川原で打ち首になりました。年は、わずかに二十才でした。
 このことを風の便りに聞いた八重菊と八重牡丹は、悪源太義平のたましいをなぐさめようと思い立ち、二人だけで京へ上ることにしました。



 そして、ちょうど通りかかったのが、飛騨と越中の国境にある「蟹寺の籠の渡し」です。普通なら、村人を呼んで渡るのですが、自分たちの身分は源氏で、しかも、京へしのんで行く旅です。
 村人に頼むこともできず、二人でこっそり渡ることにしました。
 先に、姉の八重菊が渡ろうとしたところ、途中で誤って、千尋の淵に落ち、激流に飲まれてしまいました。これを見ていた妹の八重牡丹は、「自分一人が取り残されて、 この世に何がうれしいことか」となげき悲しんで、自分も身をおどらせて、この淵に飛び込んでしまいました。しばらくして、二人の 亡骸は、下流の薄波の近くで浮き上がったということです。
 村人は、京にも行けず、夫の後を追った二人を、たいへん悲しく思って、「よしだ八重菊・八重牡丹 名をばとどめた この谷に」とうたいました。
 その後、村人たちは、どのような身の上の方でも、女や子どもが籠の渡しにさしかかった時は、両岸から綱を引くように、申し合わせたということです。

「細入村史」