第54話 小糸宗左衛門の話 富山市小糸
江戸時代、神通川東岸の下夕地区十四ヶ村の人々は、毎日、粟やひえ、そして山や野にある草、木の葉などを切り刻んでむしあげ、それをまた、乾燥してくさらないようにしながら、少しずつ食べていました。
それでも春から秋にかけては、小鳥や魚、山には食用になる木の実があって助かりましたが、冬になるとわずかな食料を少しずつ食いつなぐというありさまでした。お米も作っていましたが、村の人々は、お米の味など知りませんでした。加賀藩の役人が、情けようしゃもなくとりたてる年貢米が、おどろくほどたくさんだったからです。 下夕地区十四ヶ村の人々が、汗とあぶらを流して作ったお米は、全部、年貢米として納めなければならなかったからです。
人々は、草を食べ、木の実を食べて、死にものぐるいで、毎年、毎年、この年貢米を納めてきました。それでも、お殿様のため、ぐちひとつこぼさず働いていたのです。このあわれなお百姓さんたちは、自分でお米を作りながら、一粒だって口にしたことのないお米の俵を、舟倉や富山の磯部に運び、とっぷり暮れた夕方、我が家に帰るというありさまでした。
それは、寛文の頃であったといわれています。小糸の村へ岐阜の大垣から一人の男が移り住んで来ました。男の名前は宗左衛門と言い、たくましく、見るからに強そうな人でした。村人たちはおそろしくて、だれも近づきませんでした。
宗左衛門は、そんなことは気にしないで、だれかれとなく、親しく話しかけ、ちょっとした仕事を見つけては、かげひなたなく汗を流して働きました。困っている人を見ると、親切に力になってやりました。それだから、村の人はいつの間にか、この宗左衛門と仲よくなりました。
宗左衛門は「私が生きているのは、まだ私の仕事が残っているということだ。正しいことはあくまでやり通し、まちがいがあれば、いっしょうけんめいつぐないをすればよいのだ」と、いつも自分に言い聞かせていました。
こんな宗左衛門でしたから、食うものも食わないでお米を運んで行く下夕の村々の人々をなんとかしてやらねばならないと、考えるようになりました。 そして、加賀のお殿様にたのんでみようと決心し、たった一人で、ぶらりと村をたちました。
ところが、なんと運のよいことでしょうか。金沢の近くまで行くと、遠乗りに出たお殿様が、はるかに家来たちをひきはなして、一人、馬を木につないで休んでおられるのに出会いました。正義のため、おそれを知らぬ宗左衛門は、顔いっぱい、真心の気持ちをあらわして、下夕の村々の人々の苦しみを、お殿様に申し上げました。
命をかけたこの宗左衛門の顔を見て、お殿様も宗左衛門の心に感動され、「分かった、早く姿をかくせ。家来が来るとめんどうじゃ」と話されるが早いか、さっと馬に乗って立ち去られました。「ははっ」と地面にひたいをこすりつけて平伏していた宗左衛門は、ボロボロ涙をこぼしながら、草かげから草かげへ、たくみにかくれながら家来たちより遠ざかりました。
宗左衛門が小糸村に帰るのを、待っていたかのように、加賀藩から次のようなお達しがありました。
「今後、下夕の村々の上納は銀納とする。」
これからは米を納めなくてもよいというのです。そのかわり銀で収めよというのです。その頃は、銀納といって、年貢米を銀で納める場合は、米で納める場合にくらべて、おどろくほど安くすんだのでした。
村の人々はおどりあがって喜びました。そして、宗左衛門は、たちまち生き神様のようにあがめられました。しかし、そんなことを喜ぶ宗左衛門ではありません。「村人の一人として、やらねばならぬことをしただけ」と思っていたのです。
平和と喜びのいく日が過ぎました。そんなある日、紋付衿をつけた宗左衛門は、村はずれに、だれかを待っていました。
「こじきのいない国づくり」、これが加賀百万石のお殿様のめあてでした。下夕の村々から、ひどい年貢米を取り立てていた役人たちは、さんざんお殿様に叱られました。
このことを伝え聞いた宗左衛門は、役人たちが、必ずしかえしに来るだろうと思っていましたが、やはりやって来ました。
役人たちは、宗左衛門をやっつけてやろうと、プンプンおこりながら近づいて来ました。
宗左衛門は、そんな役人たちにていねいにあいさつをして、「あなた方をさしおいて、お殿様へじきじきにお願い申しあげたことは、まことに悪うございました。牢屋へでもどこへでも入れてください。私には覚悟ができております。どのようにされても、もとといえば私が悪いのですから」と言って、あやまりました。そして、「ただ、最後の思い出に、私の家で少し休んでいっていただきたい。私の家を見る最後の日ですから、よろしくお願いします。」と言って、自分の家に役人たちを案内しました。
「山の中ですから、とても口にあうものもございますまいが」と、宗左衛門はドブロクと川魚で、役人を もてなしました。役人たちは、思いがけぬごちそうに、すっかりくつろいで、じょうだんをいいながら酒を飲み始めました。
「酒だけはたんとあります。じゅうぶん飲んでいただかねば」と、宗左衛門は酒を取りに行くようなふりをして、二階へ上がって行きました。そして、わら屋根の三角窓からしのび出て、伏木村まで走りました。
それから、今、宗左衛門口と呼んでいる谷を下って、神通川ぶちまで来ると、今度は川上の舟渡村の下まで行きました。そして、ちょうど畑の中にあった牛のくらを見つけて、「しめた」とつぶやきながら、そのくらに乗り、上手に水をかきながら、川向かいの猪谷に渡ってしまいました。
宗左衛門が、二階に上がったまま下りて来ないので、役人たちはやっと、だまされたことに気がつきました。役人たちは、村人たちをおどして、宗左衛門のゆくえをさがしましたが、とっくのむかしに、川を渡っていたのです。しかし、川向かいは富山藩の領地ですから、役人たちはどうすることもできません。富山藩にかけあって、宗左衛門を召しとるには、金沢のお殿様に願い出て、富山のお殿様にかけあってもらわねばなりません。
金沢のお殿様は、宗左衛門を信用していますから、そんなことを願い出れば、こんどはしかられるどころか切腹ものです。悪い役人たちは、くやし涙を流してあきらめるしかありませんでした。
宗左衛門は、今度は、富山藩の村人のためにいろいろと働き、人々に感謝されながら、すばらしい一生を送りました。
今も、猪谷の飯村家のうらには、宗左衛門の墓が残されています。
安政六年(一八五九年)、下夕の村々の人々は、布尻村に宗左衛門のご恩に報いるために、記念の石碑を立てました。
この石碑は、今も、小糸公民館のすぐ横に立っています。
「猪谷むかしばなし」よりの再話