第57話    坂田公時          富山市薄波



 菅原道真(すがわらのみちざね)の死んだあと、藤原氏はますます栄え、藤原道長の代にその全盛期を迎えました。
道長は

この世をば わが世とぞ思う もち月の
   かけたることも なしと思えば

と、自分の望みが何一つとしてかなわぬことがないことを十五夜の満月にたとえた歌をつくって得意がったほどでした。
 このようなありさまですから政治も次第にそっちのけになり、日夜遊びたわむれることが日課のようになりました。春は花見、秋はもみじ狩り、月をながめ、雪を賞し、酒さかなをならべて笛だ太鼓だと大さわぎです。こうしたぜいたくなくらしが、いつはてるともなく続けられたのです。その下にいる役人たちも心の底の底までゆるみました。中央の政治がゆるめば、地方の政治もまたみだれます。


 地方の役人たちも藤原氏をみならって税を高くしたり、人々の土地や財産をとりあげたりして、ぜいたくなくらしをするようになっていきました。生活に困った人たちは次第に気が荒くなり、まじめに働くよりも盗みをはたらいたり、力まかせに乱暴したりする人もでてきました。袴垂(はかまだれ)や鬼同丸(きどうまる)などという恐ろしい盗賊がぞくぞく現れてきました。
 このようになってきても、ぜいたくになれた藤原氏や役人たちは、もはやこれらの盗賊をしずめるだけの勇気や力がなくなっていたのです。



 そこで、地方の有力な人々が親類どうし一団となり、多くの家来を養って、武芸にはげみ自分たちを守りました。そのような団体が幾つも現れると、おたがいに武力をほこり、勢いを示そうとするため、ますます力が強くなっていきました。このような世の中になってきましたので、都にいても藤原氏におさえられて出世のできなかった血筋のよい人の中には地方にくだり、これらの団体の大将となるものもでてきました。のちの世にさかんになる武士というものは、こうして生れてきたのです。



 一条天皇の御代、さかんになってきた武士団の一つである源氏の大将に源頼光という人がいました。この頼光が相模の国、足柄山のふもとを通りかかると、はるかな谷あいに五色の雲がたなびいていましたので、不思議に思って山奥深く分け入りました。

 そして、山うばに育てられていた、たくましい子どもを見つけました。この子どもの名は怪童丸といって、おとぎばなしで名高い足柄山の金太郎さんです。
 「まさかりかついだ金太郎 くまにまたがりお馬のけいこ はいしどうどう はいどうどう はいしどうどう はいどうどう」
とか、また
 「あしがらやまの金太郎さんくまとおすもをとりました くまはころりと まけました」とうたわれているあの金太郎です。



 頼光は金太郎を一目見て、これは立派な武士になるぞと思いましたので、成長したら自分の家来になるよう約束して、都へのぼりました。天延四年、金太郎は都へのぼり、坂田公時と名をあらため、頼光につかえました。
 公時はもともと怪力のもち主でしたので、たちまち源頼光の四天王のひとりとして、都の人々の人気者になりました。頼光には、学問にすぐれた平井保昌という参謀がおり、それにくわえて、渡辺綱・卜部末武・臼井貞光・坂田公時という、いずれ劣らぬ四天王がそろったわけです。



 その頃、都に近い大江山に酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼がすみつき、夜ともなると都へ大勢の手下をひきつれて、おしよせ、たいへんな乱暴をしていました。
 源頼光は酒呑童子を退治して、人々を救おうと思い、四天王をつれて、大江山にのぼりました。この時、山育ちの公時は、小さな頃から山道になれていますので、見えない道でも、すぐさがしだしたり、酒呑童子の見張りを先に見つけて、敵の目をかすめて、どんどん進みましたので、頼光はじめ四天王たちは、たいへん助かりました。
 


 やがて、道なき道をふみわけていくと、ひとりの老人が立っていて、「私は、この山をまもる山神である。酒呑童子を退治するには、ひとつの方法しかない。一夜の宿をたのんで、この酒を飲ませなさい。こちらの酒を飲めばからだの力がぬけるのじゃ。またこちらの酒は、飲めば飲むほど強い力がわいてくる酒だから、お前たちはこの酒を飲めばよい」といって、いくらついでもつきないという、徳利を二つ渡しました。



 頼光たちは勇気百倍にして、道を急ぎました。やがて、大きな洞窟に鉄の扉をたて、酒呑童子の手下が門を守っているのが見えてきました。
 頼光は「道に迷った山伏どもです。一晩泊めていただければ、いくら飲んでもつきない、不思議な酒徳利をさしあげます」とたのみました。山伏に変装しているとも知らず、酒呑童子は徳利がほしかったので、頼光たちを泊めることにしました。



 さっそく酒呑童子は手下を全部集めて、飲めや歌えの宴会を開きました。頼光は、力がなくなる酒を、酒呑童子や手下たちに、どんどんついでまわり、自分たちは力のつく酒ばかりを飲んでいました。

 やがて、酒呑童子をはじめ大勢の手下たちは、よいつぶれて、ぐっすり寝こんでしまいました。
 頼光たちは、今だとばかり、酒呑童子の首をうちとって、めでたく都へ引き上げました。



 四天王のうちでも、渡辺綱と坂田公時は、とくに仲のよい友だちでしたが、ある日のこと、源頼親(みなもとのよりちか)という人に、あざけり笑われたことがあります。ふたりはたいそう怒って、頼親のいた越前の国に攻め込みました。頼親は、たぶん攻めて来るにちがいないと思っていましたので、本陣の霧ガ城から栃ガ峠まで、長い橋をわたし、弓矢や石をたくさん準備し、大勢の家来を伏せて待ちかまえていました。



 綱と公時のふたりは、そんな計略があろうとは夢にも考えず、頼親ぐらいはひとつぶしにしてみせると、ただ、ただ勇ましく攻めこんだだけでしたので、たちまち頼親の計略に引っかかってしまいました。さすがの豪傑も家来の多くを討たれてどうすることもできなくなり、越中の国へ逃げてきました。綱と公時が危ないということを聞いて、平井保昌と卜部末武とが急いでかけつけてきましたが、勢いにのった源頼親にさんざん攻められ、このふたりも、公時と綱のあとを追って越中へ逃げ出しました。



 越中に来た四人は、有名な人たちでしたので、たちまち人々からおされて、あちこちの村々の政治をまかせられて、そのまま代々、村々をおさめていきました。
 
 平井保昌の子孫は上市町に、渡辺綱の子孫は、大沢野の新村にながく住んでいましたが、そののち八尾の布谷にうつりました。卜部末武の子孫も八尾の栃折に栄えています。
 坂田公時の子孫は、下夕道の薄波に住んで、代々、村の役人をしながら現在も脈々と続いています。
 
「大沢野ものがたり 大沢野工業高等学校 社会研究部編」