第64話 蟹寺の由来 猪谷の古老の話 富山市蟹寺
昔、蟹寺部落を石山村と言い、七軒の家がありました。又、小さな沢が多かったので、この村を小沢村とも言ったそうです。
この石山村に慈眼院というお寺が在り、お寺のすぐ横には大きな池が在って、常に清い水をたたえ、しかも深くて底無しとされていました。池には何百年も年を経た大きな蟹が住んでいると言い伝えられていましたが、村人が時折、池を覗いてみても大きな蟹の姿は見えず、池の縁に小さな蟹が遊んでいるだけでした。
或る日、何時も朝には必ず慈眼院の鐘が鳴るのに、その日に限って鐘が鳴りません。不思議に思った村人が寺へ行ってみましたが、和尚さんの姿が見当たりません。
「近くの山へでも出掛けたのだろう」と待っていましたが、二日経っても、三日経っても、和尚さんは帰って来ませんでした。
村人達は大変困って、新しい和尚さんを取り敢えず頼み、慈眼院に住んでもらう事にしました。それから二、三日は、朝、いつもの様にお寺の鐘が鳴り、皆安心していましたが、ものの一週間も経たない内に、又、鐘が鳴らなくなってしましいました。
お寺へ行ってみましたが、新しい和尚さんの姿が見当たりません。「きっと、何か化け物が出て来て、和尚さんを食べたんだ」との噂が広がりました。
この後も、旅の僧や尼さんが、時々泊まりましたが、朝になると姿が消えています。村の人々は恐ろしくて、寺の近くへ行かなくなりました。
或る秋の日、白髪の和尚さんがこの石山村を通りかかり、そして慈眼院の噂を聞いて、「私が泊まって、化け物の正体を見届けましょう。若し明日、寺の鐘が鳴ったら直ぐ来てください。又、鐘が鳴らなかったら、私は死んだと思って、墓石でも建てて下さい」と、村人に言い残して、夕方、お寺の本堂へ入って行かれました。
和尚さんは座禅を組んで、夜のふけるのを待っていました。夜半、十二時を過ぎると、突然、一人の小僧が入って来て、和尚さんに向い、「私の問答を解いてみよ」と言いました。
和尚さんが黙って座禅を組んでいると、「一人でも仙(千)とは、これ如何に」と問いかけて来ました。
和尚さんは透かさず、「一人でも番(万)人と言うがごとし」と答えるや、手に持った錫で、小僧をハッシとばかりに叩きました。すると小僧は何処へともなく立ち去りました。
暫くすると、又、別の小僧が、「そばに在っても無しとは、これ如何に」と問いかけて来ました。和尚は、「買っていながら瓜と言うが如し」と答えるや、又、錫で小僧を叩きました。小僧は、又、何処かへ消えて行きました。
暫くすると、又、別の小僧が、「水を汲んで使うのに火しゃくとはこれ如何に」と問いかけて来ました。和尚は、「木で作っても土(槌)と言うが如し」と答え、又、錫で小僧を叩きました。こうして一晩中、次から次へと小僧が現われ、問答をかけて来ました。
そのうちに東の山が少し白みかけて来ると、今度は大入道が出て来て、「若し、私の問答に答えられぬ時には、お前を食べてしまうぞ」と今にも打ち殺しそうな形相をして、和尚を睨みつけました。
そして、「小足八足、大足二足、両眼天を睨む、これ如何に」と大きな目をギョロギョロさせながら、われんばかりの大声で言い放ちました。
和尚は落着いて大喝一番、「お前こそ、隣の池の大蟹であろう」と言うが早いか、力一杯、錫で大入道を叩きました。すると、大入道は、こそこそと蹌踉(よろ)けながら外へ出て行きました。
和尚は 、夜が開けると、村中に響けとばかりに、鐘を 打ち鳴らしました。村人達がお寺に駆け付けてみると、寺の横から池にかけて、たくさんの子蟹が死んでいました。そして、池のすぐ横には、四斗鍋程もありそうな、大きな、毛むくじゃらの大蟹が死んでいました。
村人達は大変喜んで、和尚に厚く礼を言い、そして、祟りを恐れて、この蟹を慈眼院で厚くほおむりました。
和尚は、大蟹の甲羅を剥ぎ取ると、それを持って富山へ行き、海岸寺にほおむったと言い伝えられています。
その海岸寺も空襲で焼け、蟹の甲羅はその後どうなったのか、定かではありません。一説では、この坊さんは、海岸寺の住職だったとも言われています。
以来、この石山村は蟹寺村と、又、かの池は埋められて、池田と呼ばれる様になり、池田の田圃からは、毎年、良い米が採れるそうです。
民話出典 丸山博編著「猪谷むかしばなし」