第72話  吉野村のことについて      富山市吉野

 吉野村は天正以降年と共に発展し、その最後の頃は、千軒もの採鉱夫の小屋建があったと伝えられる。これは吉野だけでなく小糸・伏木・舟渡を含めたものであろう。また鉱山開発後、今の吉野部落の東方俗称「くさり山麓字下反甫」の屋敷地帯から、どん坂にかけても吉加禰部落があったが、鉱山の衰退と共に、天保年代吉野に合併した。また、吉加禰部落には、鉱山全盛期において、その守護神として山王社があったが、布尻氏神に合祀された。
 この地方は古くから飛騨地方との交通があり、同地方との縁組も多く行われ、文化の交流もあって、その影響を受けることが大であった。然し旧吉野の家屋の構造は、越中様式に能登・飛騨の風を加味した一種独特なものであった。



 明治三十三年、金沢横山男爵によって鉱山が再開させられたとき、能登方面より大工・木挽等がやって来た。たまたま吉野では第三回目の大火の後であったので、これらの大工が主となって建築したわけである。現在全戸数改築のため当時の模様を偲ぶよすがもないのは残念である。これ等の職人の中、この地に定住したものもある。
 旧吉野の交通は、笹津を起点とする県道が狭いながらも部落の中央を通っていた外、三井神岡鉱山用軌道馬車が部落の上段を通っていた。
 天正の鉱山開発に伴い、寛永・明暦に至り多くの他国者が入り込んで来たので、自然喧嘩口論はもちろん、数々の恋物語も生まれ、刃傷沙汰もあったらしいが、種々の秘話を包んで吉野は湖底に永遠に沈んだ。
 廃藩置県後放置されていたこの鉱山も、明治三十三年九月に至り、元加賀藩家老であった、横山男爵の手によって再開発せられた。時に吉野では第三回全焼後の悲惨な折柄でもあり、この再開発は部落民にとっては天来の福音でもあったが、やはり思わしくなく、最後には採算がとれなくなり、三年後にはまたまた廃坑になってしまった。この再開に当り、間歩坑という大きい方が四坑同時に採鉱せられたということである。その後明治三十七年には、神通鉱山というのが採鉱を試みたが、これも採算が取れぬまま一年後には中止し、ここに全く廃坑となって現在に至ったのである。
 吉加禰鉱山発見より、実に三百八十有余年、様々な多くの物語を秘めた、この吉野も昭和二十八年十月三十一日午後三時二十四分、永久に帰らぬ水底へ沈んでいったのである。
           
「大沢野町誌」