第79話  万願寺の不動はん            富山市万願寺

 万願寺の南、小高い山の真ん中にひっそりとかくれるように小さな不動はんの堂があるといね。
 その堂の中には、大岩の日石寺の石工がほったともいわれているびっくりするような大きな不動岩があるがだと。その石の表には、当主の丸岡善太郎ほか家族の名前や、裏には門弟百七名の名が刻まれているといね。
 今からやく百五十年前のこと、不動はんの西側に住んでおられた丸岡善太郎という人は、兵法四心多久間見日流(忍術)の免許皆伝の先生だったと。
 さて、兵法四心多久間見日流とは、鎌倉時代少し前のこと、小栗判官中納言源頼将が鎌倉の山奥で、天狗に教えられた兵法(忍術)で、全国を回って広めたのが最初といわれていると。
 時は流れ、江戸時代の終わりごろ、越中(富山)の殿様の家来で広田村中島に住んでいた佐々井和左衛門が忍術の伝をつぎ、大きな道場を開いて多くの門弟を出したと。
 ある時、万願寺の丸岡善太郎が中島を通りかかった時、馬に乗ったひげをはやした佐々井和左衛門にひょっこり会ったと。その時、善太郎は和左衛門の乗った馬の尻をたたいたといね。それを知った和左衛門は、
 「その方は、たいへん度胸がある者じゃ。わしの門弟にならぬか。ハッハッハ」と。
 その後、自分の家の近くで道場を開いたら、たくさん来られたといね。
 門弟の中には、丸山憲三氏、池田鶴次郎氏、赤坂竹次郎氏など、すぐれた人がたくさんおられたと。



 このお堂は、明治三十五年ごろ、門弟や近くの村人が総出で万願寺山の岩谷から、冬雪の上を「そり」に、 大きな岩を乗せて、「つな」で引っ張って来たがやと。
 「つな」は、村人の手で、わらをうち、竹をわり、女の人の髪の毛や馬の尾の毛をよりあわせて、切れない強い「つな」を作ったがやと。大岩を運んだ時、みんなの掛声が遠くの村まで響き渡ったそうな。
 また、丸岡善太郎より二十年前に、同じ佐々井和左衛門の弟子となって、免許皆伝となった丸山順一郎重則がおられたと。丸岡善太郎にとって、丸山順一郎重則は先輩であり、相談相手だったと。
 忍術は、あくまでも護身のためであるという思いから、手裏剣の受け方、天井、畳の下のはりつき方、空中のとび方など、それはみごとなものだったそうな。
   
話者 丸山俊一 「船峅のむかしがたり」