第87話 大久保用水 富山市大久保
大久保の土地は、ずっと大むかしは荒れはてた川原でした。今からおよそ千百年ほど前に松本武太夫の一族が住みつき、小さな村ができました。大久保の土地が開発されだしたのは、今からおよそ二百年ほど前(江戸時代の中ごろ)からです。そのころ、大久保一帯は小石まじりの荒れ地で、草かり場、たきぎとり場でした。江戸時代に入り、人も住みはじめました。こうして大久保の土地に住む人々は「飲み水と、田畑をうるおす水がほしい」という願いをもつようになりました。そんな時、富山藩は、ようやく仕事にとりかかり、新田開発と用水を引くことになりました。
用水を引くには、神通川の水を引くしかなく、笹津より水を取り入れれば、大久保に千石の米がとれるようになるとみこまれました。しかし、すぐに工事にとりかかれませんでした。そのころ、笹津は加賀藩の土地でしたので、富山藩十村と加賀藩十村との話し合いがおこなわれ、笹津へ入ることが許されました。
工事は、はじめに用水口をきめることから手がけました。お金はたくさんかかるが、大久保への水引はできるということが分かりました。一七四一年(寛保六年)よりはじめられた大久保用水の工事は、一七六五(明和二年)片口喜三郎が加わり、工事もさかんになりました。しかし、がけくずれが起こり水もうまく流れなかったようです。藩の努力と農民の努力によって、ようやく一七七七年(安永五年)田畑に水が入るようになり、任海村(新保)岡崎孫治郎が五百石の新田開発願いを出しました。孫治郎は、全財産をつぎこみがんばりましたが、用水を思うようにつくることができませんでした。その上、干害、水害、強風のため、作物も実らず生活もできなかったので、大水でこわされた用水の修理もあきらめてしまいました。
こうした悪い条件でしたが、将来のことを思い藩主前田利謙は、大久保開発を強化しました。ちょうどその頃、ひだ街道を通って運ぶ塩荷が多くなり、大久保一帯に人が多く住みつき、開発田も多くなりました。そのため用水を広げる修理をしなければならなくなりました。一八〇六年(文化三年)富山西町の商人岡田屋嘉兵衛が、東大久保の広い土地に目をつけ、大久保用水の改修に力を尽くしました。
嘉兵衛はたくさんの財産をもっており、自分の財産を使って改修しました。この改修は取り入れ口を岩木から長走に移し、新しい用水路をつくる大工事でした。そのため働く人は四千人ほどかかるので、大久保だけでは足りないので、他の郡からも二千人ほど出すように命ぜられました。また、大工事でたくさんお金がかかるので、そのお金をつくる方法が考えられました。まず、はぜ(ろうそくの原料)の木を植えたり、ひだ街道で運ぶ塩を一万俵ふやして、その利益を用水路工事に使いました。
工事は、じん次郎(嘉兵衛の子)が、日夜、寝食を忘れて働きました。工事は、決して楽ではなかったようです。ひだおろしの寒風、日照り、大水などの自然災害は、財力と気力をなくさせました。また、大石まじりの土地は、かんたんな道具(つるはし、もっこ、石割のみ、たがねなど)では、なかなかはかどりませんでした。また、トンネルを掘る時、ちょうちんを照らし高低を測りましたが、大変むずがしいものでした。しかし、嘉兵衛にとっては「千石の美田にしたい」という気持ちが強く、やめるわけにはいきません。一方、寒風で働く農民たちは「苦しいめにあって、ちっとも楽にならない」と、あちこち不満の声があがりました。じん次郎の小屋、西町岡田屋へのうちこわしなどがあり、大変困難をきわめましたが、一八一三年(文化十年)に、幅六メートル、長さ七六〇〇メートルの大久保用水が完成しました。
のちに、明治時代に入り、大久保用水の水は塩の発電に利用されました。大正から昭和のはじめには、ひだから切り出されたひの木や松を運ぶための流水も利用されました。
「神通川 たえぬ流れを 引き入れて 志おのの里に 千町田」これは、岡田屋嘉兵衛(のちの三輪日顕)の孫、為敦が読んだ歌。今のきばん整備された田が広がる大久保の土地も、むかし川原であったことを思い浮かべると、このような美田にするまでの人々の苦労がしのばれます。
大沢野町教育センター 「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」