第88話  大沢野用水           富山市大沢野



 今から一八〇年ほど前、大沢野は砂や石まじりの土で水も少なく、作物も実らない荒野でした。人びとは、水さえあれば、広々としたこの土地にたくさんの新田を開くことができるのになあ・・・と考えていました。すぐ近くには大きな神通川の流れがあります。しかし、川底が大沢野より低いので、遠くはなれた上流から取って、長い用水路をつくらなければになりません。
 一八一九年(文政二年)ここをおさめていた富山藩は、寺津村(下夕地区)から水を取り入れ、神通川の東岸の山腹を通って約八キロメートルの水路をつくり、大沢野町を開こんする計画をたてました。しかし、水路の途中に加賀藩領があり、笹津村・布尻町長など、七つの村を通ることになるので、一八六五年(慶応二年)に工事に入りました。途中の村々にめいわくをかけないように、水路が村を通るときはトンネルにしたり、こわれないようにふちを大きな石でかためたりするむずかしい工事でした。苦労のすえ、ようやく一八六八年(明治元年)に用水ができ、新しい田畑が少し開けました。工事をした人も住みつき、大沢野に初めて部落もできました。
 ところが、開こんもこれからという時に、一八七〇年(明治三年)の大雨によって、用水がこわれてしまいました。用水をなおすにはまたたくさんの人と力とお金がかかります。それにむずかしい工事もしなければなりません。工事をしようとする人が何人かいましたが、思うように工事が進まず、途中で中止するしかありませんでした。世の中も新しくかわったこともあり、長い間用水はそのままでした。
 このようすを見て、富山市に住んでいた内野信一は、自分の財産をなげうって、一九〇二年(明治三十五)に用水の改修工事と開こんの仕事にのりだしました。内野信一は、五十嵐政雄・田村次六・碓井又司次などといっしょに、大沢野開こん配水株式会社をつくり、開こんする人たちの家を建てたり、その人たちの心を養うために神社や寺を建てたり、開こんに必要な機械をかいいれたり、技術をたかめるための講習会を開いたりしました。努力の結果、用水もだいたい掘りかえされ、少しずつ開こんも進みましたが、用水の水の量が少ないために開こんが思うようにできませんでした。
 豊富な水を流す用水にするためには多くの費用がかかります。そこで国や県から助成金をうけ、ようやく一九二四年(大正十三)に、りっぱな用水に改修できました。その後開こんはどんどん進み、むかし作物も育たなかった荒野は、見わたすかぎりの田畑にかわりました。開こんに参加した人たちの喜びはどんなものだったでしょうか。高内の広場には大沢野の発展のもとをきずいた内野信一の銅像が立てられています。
 現在用水の取り入れ口は、神通第二発電所ができたため、第二ダムにうつされ、(寺津からダムまでの水路は、神通川にしずんでいます)水路は全部コンクリートになり、笹津・春日・下夕林・稲代・加納・西塩野・高内・長附・上大久保の田をうるおします。西大沢の神明宮のわきに三ッ分水があり、ここから、春日方面、稲代・加納方面、高内・長附方面、へと用水は流れています。用水の管理は大沢野土地改良区の人たちがしています。
                    
大沢野町教育センター 「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」