第9話 沼の主        富山市蟹寺

 

(一)二〜三日前から、しょぼしょぼと降り続いていた雨も、どうやら落着いたらしく、狭い川幅いっぱいに立ち込めていた朝霧も、どんどん山の頂へ向かって流れ始めました。晴れ間からは、次第に山の麓が見え出し、やがて麓の村が現れました。すっかり秋らしくなった池田の森と慈眼院の朽ちかけた屋根が見えます。

 ここは、飛騨と越中の国境にある石山村です。段々の小山田が所々にあって、一〇余りの草葺の屋根が散らばっているのでした。

 池田の森は、村の後方の高い所にありました。そこの南側に、もう黄ばんで一層高く抜き出ているのが、慈眼院の大銀杏でした。すでに幾百年経っているかも分からない老木で、村人は、この大銀杏の色付くのを見ては、秋の深まったことを知るのでした。

 慈眼院の裏庭には、ひっきりなしに、木の葉が落ちて来ます。その落ち葉を背に受けながら、和尚様は、菊の手入れに余念がありません。

 上り切った霧の間から、太陽が耀き始めました。狭苦しい裏庭に、ぎっしりと立ち並んだ幾十鉢かの菊の蕾が、朝露を含んで、くっきりと浮き出しています。ぽっこりと膨れて、花が開きそうな鉢も幾つか見えています。

 このお寺の和尚様は、菊作りの名人でした。辺りの山の頂が、残りの雪で、まだ真白い頃から、菊の根分けに意気込むのです。

 やがて、池田の森がすっかり青くなって、峡谷の栃の木に小さな花が、こっそり咲き始める頃になると、畠一面に植えられていた菊苗が、一つ一つ鉢に植え込まれます。

 そして、宮川の荒瀬へ鮎が下り始める頃には、慈眼院の裏庭には、勢揃いした菊鉢が、所狭いまでに並べられるのでした。

 「お早うございます。和尚様」

 一人の村人が、声を掛けました。

 「なんと、今年も見事になりましたね。」

 村人は、菊鉢の立派な出来栄えに、いかにも感心した様子です。

 「あぁ、それ。この鉢を見てくだされ」

 和尚様は、自慢の鉢を抱えんばかりに、得意そうでした。

 

(二)幾日かが過ぎました。今日もまた良い天気です。森の中では、朝早くから小鳥たちの囀りが聞こえ、辺りの小藪には、真っ赤な木の実が光っていました。

 今朝に限って、あの元気のいい和尚様が、どうしたものか浮かぬ顔で、裏庭の縁に腰を下ろしていました。何だか、打ち沈んだ面持のようです。

 よく見ると、日頃、和尚様が、あれほど大事にしておられた菊鉢の幾つかが、打ち倒され、その側には、幾つもの小蟹の死骸が、転がっているのでした。

 「わしのせっかく大事にしていたものを、この小蟹どもが、悪戯にも鋏み切ってしまったから、踏み殺したまでだ」

 そんな風に、和尚様は、自分の心に言い聞かせてはみるものの、小蟹どもの鋏や足がもげて、幾つも幾つも折り重なっているむごい死骸が、気に掛かります。

 和尚様は、何かを思い出したように立ち上がり、森の中へ歩き出しました。大事な菊と、小蟹の死骸とが、まだ、和尚様の頭の中を、ぐるぐると、渦巻いていました。

 森のずっと奥まった山際には、薄暗い沼がありました。

 「池田の沼と言って、ずっと昔から、大きな古蟹が、棲んでいるのだ」と伝えられていました。

 和尚様は、この沼の近くまで来ました。そして、沼の端の大岩の上に立って、淵べりを、見渡しました。

 すると、蕗の赤い茎の辺りに、一匹の黒い小蟹が、目に止まりました。

 と、その隣にも、また、その隣にも、同じような小蟹が、ぎっしりと並んでいます。

 やがて、それが、沼の周囲いっぱいに広がり、二重になり、三重になり、しまいには、沼一面を覆い隠すようにさえ見えました。

 その時です。沼一面の小蟹の群は、少しずつ、静かに回り始めました。かと思うと、今度は、ぐるぐる、沼全体が動き始めました。

 ぐるぐる、ぐるぐる。猛烈な速さです。

 やがて、それも止むと、今まで、沼一面を覆い隠していた小蟹の群が、たちまち一匹の大蟹となり、大岩の方へ向かって動き出しました。よく見ると、和尚様は、いつの間にか、大岩の上に、打ち倒れていました。

 

 (三)「早く、治ってくださればよいが。何分にも、御老体のことだから…」

 数日後の慈眼院の一室です。心配そうに語り合っているのは、和尚様の重態を知って、駆け付けた村人たちです。

 和尚様が、大岩の上から、村人に担ぎ込まれた時には、もう虫の息でした。あれから三日も命を保ったのが、不思議な位です。

 その時でした。和尚様は、衰え果てた目を、そっと見開いて、

 「誠にお手数じゃが、わしの体を、庭の見える所まで、連れ出してくだされ」と、つぶやきました。弱弱しい語勢でしたが、和尚様は、気持ちだけは、しっかりしていました。介抱している村人たちは、すぐに、和尚様を、庭の見える座敷まで連れ出しました。

 「わしの菊の鉢を、枕もとに並べて下され。頼みじゃ」と、和尚様が言いました。

 一瞬にして、村人たちの顔は、言い合わせたように曇りました。和尚様が、どんなに菊の花を大事にしていたか、誰もがよく知っています。そして、菊の鉢を、和尚様の枕もとへ置けば、どんなに喜ばれるかも知っています。

 けれども、今は、それが出来ないのです。和尚様が寝付かれた日から、不思議にも立派な菊から、パッタリパッタリ倒れ出しました。今では、菊らしいものを、一鉢だって見ることが出来ないようになっているのです。けれども、和尚様にそんな話をしようものなら、どんなにか力を落とされるだろうと、村人たちは、固く口をつぐんでいました。

 「和尚様、どれもこれも、みんな見事に咲き揃いましたぞ」

 「けれど、和尚様、病気をすっかり治してから御覧遊ばせ」

 「今年ほど、綺麗な菊を見た事はありませぬわい。早く良くなって下され」

 村人たちは、代わる代わるなだめてみました。和尚様は、一人心の中で肯いていましたが、その顔は曇るばかりでした。

 「それでは、あの白い大輪一鉢だけでも…」

 和尚様は、自分の運を試すかのように言いました。

 「和尚様、あれは未だ蕾でございます」

 村人たちの答えには、元気がありませんでした。

 「いや、今が丁度見頃の筈じゃ」

 村人たちは、とうとう根負けしたように、首をうなだれて、今までのことを、全て、和尚様に語り聞かせました。

 そして、その中の一人が、白い大輪の枯葉を差し出しました。和尚様は、がたがた震えながら、手にそれを取って、切口をジーと見詰めていましたが、急に、突拍子もなく大きな声で、

 「蟹、カニ、カニ」 と叫んだまま、パッタリ倒れて、再び起き上がることはありませんでした。

 その夜、和尚様は、とうとう亡くなりました。

 間もなく、誰言うとなく、「池田の沼に棲む、古蟹の祟りだ」という風評が、村中に広がりました。

 

(四)慈眼院の和尚様が亡くなってからは、村には、余りよいことが続きませんでした。この二〜三年来と言うものは、思い通りに作物も出来ず、その上に、悪い病気さえ流行りました。村人たちの元気は、すっかり衰えて、力のなさそうな顔からは、情けない溜息だけが出るようになりました。

 「沼の主の祟りだ」

 「池田の古蟹の祟りだ」

 人々は、それを信じ切っていました。だから、方々の神仏に祈願して、覆いかぶさっている悪霊を、払おうと考えました。

 気の毒な村人たちのために、進んで祈願を行われた幾人かの神主や坊様もありました。けれども、祈願を行なった数日の後には、不思議にも、名も知れぬ病に罹って、神主や坊様は、死んでしまわれるのでした。

 今では、神や仏にさえ見放されたのです。村人たちは働く元気もなく、雑草の田圃にどっかと座ったきり、雨蛙が雨雲を待っているかのように、あてもない毎日を、ぼんやり暮すのでした。

 和尚様がいなくなってからの慈眼院は、荒れ放題に朽ち果てました。裏庭の菊鉢も、雑草と枯葉の中に隠れるように、幾つかが転がっているだけでした。そんな中で、銀杏の老木だけは、不気味につっ立って、荒れ果てた村を眺め下ろしていました。

 村人たちは、一人去り二人去りして、住み慣れた石山村を離れて行きました。皆、当てもない遠い他国へ流れて行ったのです。

 ただ、平和な昔の村を思っている幾人かの村人が、諦め切れず、鍬を振っているだけでした。



 このように困り切った石山村へ、ある日、一人の旅僧が訪ねて来ました。見る影もない村の様子を、旅僧は、瞬きもせずに見守っていましたが、やがて、旅僧の目は、知らず知らずのうちに涙ぐんでいました。

 「おお、聞きしにまさる荒れ方だ。気の毒なことじゃ」

 旅僧のつぶやく口許にも、何か深く決する所があるようでした。旅僧の足は、あの朽ち果てた慈眼院へと向かっていました。

 

(五)その夜から、慈眼院に篭った旅僧の唱える読経の声は、池田の森にこだまして、石山村にも響き渡りました。村人たちにとっては、何年来の懐かしい御法の声でした。今まで不安に脅えていた人々の心を甦らせるようでした。

 それからは、幾晩も幾晩も、この読経の声が響き渡りました。そして旅僧の傍には、村人たちがひれ伏して、共に念仏を唱えている様子が見受けられるようになりました。

 ある晩のことでした。薄暗い庵室に端座した旅僧は、只一人、夜の更けるのも知らず、読経を続けていました。

 旅僧のらんらんと光り輝いた眼、固く結ばれた口許、その重々しい様子を見ては、どんな魔物も近寄ることは出来ますまい。

 と、突然、水を打ったような庵室の薄暗い片隅から、異様な呻き声が起こって来ました。

 「東馬の白頭は、如何に?」

 旅僧は、キッと、その辺りを睨みすえていましたが、直ちに、

 「東はヒガシ、馬はウマ。それは、東の山に棲む馬のしゃれ頭であろうぞ」と応じました。

 だが、魔物の第二の問は、直ぐに続きます。

 「南下の巨木は、如何に?」

 続いて、

 「西竹林の三足鳥は?」

 「北林の猿古は?」

 けれども、旅僧は何の苦もなく、全てをお解きになりました。

 いよいよ、最後の問答です。

 「小足八足、大足二足、両眼は天を睨む」

 その時です。身揺ぎもせずに、じっと、魔物を睨んでいた旅僧の眼は、物凄く輝き出したかと思うと、破鐘のような大音響で、

 「それこそ、池田の沼に棲む魔物!汝であろうぞ…」

 旅僧に固く握られていた錫杖は、ハタと打下ろされました。奇声を発した魔物は、大蟹の姿を現して、打ち倒れました。







 慈眼院で、魔物が打ち倒されたという話は、直ぐさま、村人たちに伝えられました。その話を聞き、駆け付けた村人たちの喜びは、どんなにか大きかったことでしょう。

 やがて、村は、再び平和で豊かな里に立ち返りました。

 そして、お互いが、あの頃の苦しみを、何時までも忘れないために、村の名前も「蟹寺」と改め、旅僧の徳を永く賛えました。

              

  民話出典「猪谷尋常小学校 尋六 (婦負郡小学校長会刊 郷土読物)」