命の水  小糸

ある年のことです。しょうぐん頼朝が母のように、したっていた方が、病気になりました。「医者だ。薬だ。」との、大さわぎをしましたが、病は重くなるばかりでした。

ほとほと、こまりきっていた頼朝は、日本で名の知られたうらないしを呼んで、みてもらいました。「サイの角があれば、すぐにもなおりますが。」というのが、うらないしのことばでした。しかし、暑い国にすむというサイが、この日本のどこにいるというのでしょう。

頼朝は、けらいを集めて、みんなの意見をきくことにしました。

この時、畠山重忠というたいしょうが、すすみ出て、
「越中の国に流れる、神通川をさかのぼると、サイとよばれる、
ふしぎなけものが、すんでいると聞いています。
さっそく、これをたいじして、その角をじさんしましょう。」ともうしました。


 頼朝のゆるしをうけた重忠は、大沢野のおく、東猪谷の山々にふかく分け入り、草をしとねとし、木の根をまくらに、サイをさがして、苦しい毎日をすごしました。

 「この谷にすむサイは、いままで、人にきがいを、くわえたことはない。いかにしょうぐん家のごめいれいとはいえ、あまりにも、むごいこととは思われぬか。思いとどまり、いのちを助けてこそ、まことのぶしというものであろう。」と、悲しげにかたりかけました。

 重忠は、心のうちに、「人かげもないこんな山おくに、一人住んでいるこの老人こそ、きかいな物のけにちがいない。」と考えました。そして、とっさに、「老人のしょうたいこそ、サイにまちがいない。」と思いました。

 重忠は、自分の心のうちを、気づかれてはこまりますので、うわべだけではうなづいてみせ、帰るふりをしながら、こっそりと、この老人のあとを、つけていきました。

 老人は、水しぶきをあげる谷川の岩から岩へ、風のようなはやさで、飛ぶようにのぼっていきます。やっぱりあやしいぞ、重忠は、見えかくれしながら、あとをおいました。やがて、谷川はたきとなり、たきの上には、大きな池が、まんまんと水をたたえていました。

 老人は、はっとする間もなく、この湖水に身をひるがえして、飛びこみました。老人は、みるみるサイのしょうたいをあらわして、底深くしずんでいきます。重忠は、「しめた!」とよろこび、いそいで着物をぬぎすてました。

 重忠は、一刀を口にくわえて、ザンブとばかり、サイのあとをおいました。

                            

 水の底では、ランランと目を光らせて、サイがまちうけていました。しかし、東国第一といわれたごうの者、畠山重忠は、少しもおそれません。たちまち、すさまじいあらそいが、まきおこりました。けども、さすがのサイも、重忠のかいりきにはおよびません。

 やがて、美しいみずうみをまっかにそめて、重忠は、サイの角を切り取ると、さっそく鎌倉にむかい、いそぎにいそいで、サイの角をとどけました。

 しかしながら、せっかくとどけられたサイの角も、さっぱりききめがあらわれず、病人のやまいは、いっそう悪くなり、とうとう、なくなってしまいました。

 頼朝は、うたがいぶかいせいしつでしたので、重忠が、ニセモノを持って来たものだと思い、サイの角を、重忠につきかえしました。それでも、頼朝は、はらの虫が、おさまらなかっとみえて、きゅうにおってをむけて、武蔵の国のふたまた川というところで、ちゅうぎな重忠を、せめころしてしまいました。

 重忠の子、六郎は、うちよせるてきの目をくぐって、越中の国へのがれてきました。六郎は、父ののこしたことばを守り、代々つたわるカブトと、父がサイの角できざんだ「三帰妙王」というほとけさまを持って、芦生村(大沢野)まで来ました。

 芦生に来た六郎は、父がいいのこした通りに、この村に草庵をたて、父の霊とサイの後生をとむらいました。これが法雲寺とよばれるお寺のはじまりですが、このお寺はもうなくなって、そのあとには、こうみんかんがたてられています。

                                     民話出典「大沢野ものがたり」

楡原  不怠山 上行寺    

 慶永十六年八月(一四〇三)に当国新川郡芦生村に法華宗の僧がやって来て、一宇を建立し、不怠山上行寺と号した。雨来一二〇年余年、同所にあって教線の拡張を計り、信徒も次第に増大の一途を辿った。

その頃、対岸の婦負郡細入村には、源将軍頼朝配下の畠山重忠の菩提寺として元久二年(一二〇五)に建立された真言宗の法雲寺があった。ところが、上行寺第四世日成の代に至って、遂に法雲寺を教化して法華宗に改宗させることに成功し、上行寺は芦生から飛騨街道の要地、楡原村に進出発展を計ることになった。時に天文元年四月(一五三二)のことである。



  重忠祭り 

毎年、七月二十二日、楡原の館というところにある畠山重忠の墓前に村人が集まって、上行寺の住職に経をあげてもらい、菩提を弔っている。上行寺の縁起によれば、天保八年二十四代堅固院に始まるとある。
 上行寺には、重忠公の位牌「大心院殿蓮空神紙」がまつられ、「三帰妙王」といわれる仏像が寺宝として大切に保存されていて、毎年八月十五日には御虫干法要が厳粛に行われている。

伝説・民話のふるさと 片掛

富山市 楡原

  神通川の左岸に開けた細入地域最大の集落で、西には御鷹山がそびえている。地名の由来には、楡の木が繁茂していたという説がある。南北朝時代には楡原保という名前がある。
  慶応四年(一八六八)の家数は一〇〇戸、人数四六四人であった。

  昭和に入り、高山線の開通とともに地域が発展し、役場が庵谷から移転した。
  昭和一七年に高田アルミ工場ができ、楡原地内は、大きく変化した。工場や寮・宿舎が建てられ、人口が激増し、耕地は減少した。その後も楡原地域は様変わり、現在に至っている。