ふ な く ら も の が た り

〜大沢野工業高等学校社会研究部編「大沢野ものがたり」より〜

「 帝  龍  寺 」


1 真福上人と虚空蔵菩薩(「帝立寺」の起こり)


2 怪力和尚の龍退治(「退龍寺」の伝説)


1 真福上人と虚空蔵菩薩 (「帝立寺」の起こり)

 山城の嵯峨野といえば、後の京都嵐山にあたりますが、ここに虚空蔵菩薩というありがたい仏様がおられました。
 この虚空蔵菩薩というのは、やさしくふくよかなお姿ではありますが、右手に剣、左手に宝の珠をお持ちになって、虚空つまり宇宙にある月や星などすべてのことを指しますが、この虚空を蔵するすなわち包んでしまうくらいの計り知れない知恵をもった仏様です。ですから知恵を授ける仏として信心され、京都の人たちは今でも「十三参り」といって、少女が13歳になると必ずお参りして、女性として必要な知識を授かるようお祈りしています。
 この虚空蔵菩薩がわが国に生まれ変わって現れたのが、大沢野の守り神「あねくら姫」であるといわれています。

 大宝2年(702年)といえば、有名な大宝律令が制定された翌年のことです。文武天皇は御血縁の真福親王を召されて、この嵯峨野の虚空蔵菩薩をあねくら姫のふるさとである越中の大沢野に移し、寺院を建立するようお命じになりました。真福親王は、天皇の命令をお受けして、直ちに越中へ向かいました。しかし、昔のことでありますから、大変な苦労を重ねてようやく大沢野の舟倉にたどりつきました。
 このころの仏教というのは、決してお経だけ読んでいたり、葬式の世話をしたりするだけではありませんでした。
 仏教は、もっとも進んだ学問であり、「どうすれば世の中の人々をもっと幸福にし、安心して暮らせるようになるだろうか。」と考え、実際に行動に移して実行しようという、迫力あるはつらつとした思想だったのです。ですから、世の中を治める政治,人の心を美しく導く文学・音楽・絵画・彫刻などの芸術,病気を治す医学などは、みんな仏教の中に含まれていました。そればかりでなく、用水や堤防,湖水の造り方や橋のかけ方、建築から土木に関する一切のことも仏教の一部分だったのです。
 こんなわけで、仏教を広めるということは、その土地の文化を進め、人々の生活レベルを上げることになりますから、真福親王が舟倉に寺院を建てようとなさることが、私たちの先祖にとってどんなに素晴らしいことであったかが想像されます。しかも、移っておいでになる仏様が、ふるさとの人々が忘れようにも忘れることのできない御先祖あねくら姫様にお姿を変えられたという虚空蔵菩薩ですから、当時の大沢野の人たちの喜びはどんなに大きかったことでしょう。
 文武天皇は、中央の文化を都から離れた地域に移したい、そして田舎の人々にも文化の恵みを与えたいと思い、真福上人を越中におつかわしになったものと思われます。それとともに、せっかく大宝律令というすぐれた法律がつくられ、国の組織ができたのに、なかなか草深い田舎まで律令のきまりが徹底しないので、地方の国々の中の土地に天皇のとってもっとも信頼のおけるすぐれた人物をつかわし、日本の政治を固めようとなされたものと思われます。
 律令には、それまでばらばらだった地方の国々や豪族たちを統一すること,国・郡・郷・里という地方制度をつくること,国民の戸籍をつくり国民一人一人にまで口分田という土地を公平に分配することなど,なかなか進んだ政治の方法が盛り込んでありました。ですから、何も知らない田舎の人たちにいちいち教えていかなければならない真福親王の任務は、たいそう重いものだったのです。

 親王は、国の政治の目的を遂げるために、大沢野の人々と心からうち解け合い、導いて行かねばなりません。毎日のご苦労は並大抵のことではなかったでしょう。幸いなことに、親王は文武天皇と血を分けた尊い方でありながら、人々と分け隔てなくお暮らしになり、その優れた知識を親切に分かりやすくお教え下さいましたので、人々は親のように慕い寄って「上人様、上人様」とあがめました。
 真福上人は、こうして大沢野の人々の真心あふれる協力を得て大きなお寺を舟倉に建て、この寺に虚空蔵菩薩をおまつりしました。
 このお寺は、文武天皇つまり当時の帝の命令によって建立された寺院ですから「帝立寺」と名付けられ、盛んなときは360ヶ寺と7つの神社をまとめる寺として、七堂伽藍がそびえ立っていたといわれています。

2 怪力和尚の龍退治 (「退龍寺」の伝説)

 帝立寺の何代目かの住職に、それはそれは力の強い和尚さんがいました。とにかく、生まれてこのかた、何をもっても重いと思ったことがないというくらいでした。何人もの人々がかかってもびくともしない鐘撞き堂の釣り鐘を、「アリヤ、アリヤ、アリヤ。」と大きな声を出して、はずしたりかけたりして見せました。20〜30人の若者たちを相手に綱引きをして、エヘラエヘラと笑いながら引っ張り込んでしまうので、「怪力和尚」と呼ばれていました。
 この怪力和尚は、学問をしてもけたはずれの努力家でした。深い知識を求める和尚の部屋に入ると、天井まで届くくらいの書物がうずたかく積まれ、訪れる人たちを驚かしたということです。

 その頃、現在の池ノ原は満々と水をたたえた大きな池で、周りには神代から切ったこともない自然の大木が生い茂り、寂しいところでした。大密林の中にある池なので青黒く底さえ知れず不気味に静まり返って、時折バシャッとはねる魚の音にさえ思わず肝がつぶれるという恐ろしい場所でした。
 それでも人々は、生きるために獣を追ったり、大切な薬草を採りにこの池の近くへ出かけたりしなければならないことがしばしばありました。ところが、ある時期になって、この池へ出かけた人が二人三人と帰ってこなくなったのです。人々は、頭を集めて相談し、力自慢の若者に探してもらうことにしました。10人ばかりの若者たちは、手に手に武器を持って池の周りを何回も探しました。しかし、密林も池もあくまで黒々と静まり返っているだけで、行方の知れなくなった人を一人として見つけることができませんでした。
 そのうちに、誰からともなく、
 「池には大蛇がいるそういな。一人で行くと引きずり込むというそうな。」
 「この間、村を通った旅の坊さんがあの池のほとりで座禅を組んでいたら、龍が顔を出したので驚いて逃げ出したということじゃ。」
 「大蛇か龍か知らんが、でっかい鱗が池一面に浮いていたのを見た者もいるぞ。」
 といううわさがたちました。こうして、ただでさえ不気味な池は、ますます気味の悪いものになり、誰一人として近づく者がいなくなりました。

 池には、やはり龍が住んでいたのでした。この龍は、はじめはかわいらしい小蛇で、舟倉山に住みちょろちょろと毎日を過ごしていたのですが、帝立寺が建ち、たくさんのお寺が並んで人々が集まり、山や林が切り開かれたので、次第に住むところを追われて、とうとうこの池へ逃れてきたのでした。
 やがて年とともに大蛇になり、風が運んでくる寺々の読経の声に耳を傾けているうちに、さまざまな知識を身につけていきました。学問は、人の心を正しくし、よい行いをするためにあるものですが、学ぶ人の心がけによって、かえって悪魔の術となることがあります。現在の世の中でもそうです。学問の結晶であり、科学の粋である原子力の研究も、平和のために利用すれば世界の人々の幸福になりますが、ひとたび戦争に利用すれば人類を滅ぼす悪魔の爪になるでしょう。
 大蛇は、舟倉山から追われたことを深く恨んでいました。
 「いまに見よ。人間どもめ。俺は、お前たちの学問を奪い取り、知識を磨いて龍王となるのだ。その時こそ、雲を呼び、風を走らせ、雨を降らして、大沢野の地をみじんに打ち砕いてみせる。」
 これが、大蛇の恐ろしい執念だったのです。そして、学問を修めた大蛇は、ついに龍になっていたのです。
 龍には二つの種類があります。八大龍王の命令を受けて干天に雨を降らせ、人々を助ける龍神と、人を食らい嵐を起こす迷惑な悪龍の二つです。池ノ原の龍は、もちろん悪龍で、八大龍王の命令を聞かず勝手に飛び回る困った龍でした。
 この悪龍は、人間の知恵を自分のものにするために、たくさんの人々を飲み込まなければなりません。特に、生きた人間の脳味噌を食べるのを喜びます。それとともに、荒々しい気性を養うために、牛や馬など強い力をもつ動物を好んで飲み込みます。
 人々が池に近寄らなくなると、この悪龍は黒雲に乗って村々を襲い始めました。人間だろうが家畜だろうが、片っ端から食い散らしだしたのです。さあ大変です。人々は、恐ろしさのあまりただうろうろするだけでした。

 夕日が真っ赤に西の空を染めているある日のことでした。帝立寺の怪力和尚は、虚空蔵菩薩の前で静かに経文を唱えていました。悪龍のために命を落とした人々の霊を慰めていたのです。いつも元気で朗らかな怪力和尚の後ろ姿も、この日ばかりはやつれて悲しそうに見えました。
 ふいにグラッと大きな本堂が傾くように揺れ、建物全体がキシ、キシ、キシッと泣くような音を立てました。そのとたん、生臭い風がゴーッと本堂を吹き抜けていきました。
 怪力和尚は、すくっと立ちました。和尚は、今までも悪龍に会いたいと思って村という村をさまよい歩きました。密林の池の縁で夜を明かしたりもしました。しかし、悪龍はいつも和尚のいないところにばかり現れたのです。
 「この風だ。やっと龍に会える。」
 和尚は、勇気りんりんとして、本堂の屋根に駆け上がりました。和尚の大きな目玉が、池ノ原あたりをはったとにらんでいました。
 池ノ原には黒雲が巻起こり、ザーッと水をあけるような雨を降らしながら、あちらこちらとさまよっているようでしたが、たちまち帝立寺めがけてまっしぐらに押し寄せてきました。しのつく雨。目を射る稲妻。帝立寺は、ちょうど滝の中に立っているように見えました。
 怪力和尚は、負けてたまるかと目を凝らしました。黒光りする大きな龍が、本堂の目の前にある五重塔を三回半も巻いて、炎のような毒気をガーッと吹き付けてきます。黒い鱗が、金属のようにガチッ、ガチッと音をたてるたびにパパッと火の粉が飛び散ります。龍は、勝ち誇ったように、何回もものすごいうなり声を天高く上げて吠えるのでした。
 怪力和尚は、さすがにたじたじとなりましたが、気を取り直して、一抱えもある本道の鬼瓦をよいしょっとばかりに投げつけました。鬼瓦は、ブーンとうなりを上げて飛び、見事に鬼の頭に命中しました。ところが、龍はそれを平気ではねとばしてしまいました。そして、あざけるように塔を揺すってみせるのです。そのため、堅固に造られている五重塔も、今にも崩れ落ちそうになりました。
 落ち着け、落ち着くんだ。怪力和尚は、自分で自分の心に言い聞かせました。そのとき、和尚はふと村人から聞いた話を思い出しました。
 「蛇ちゅうもんは、尾に力のもとがあるもんで、大きな獲物に巻き付くときは必ず近くの木に尾を巻いているもんだ。蛇は尾を切られたら、もうあかんですわい。」
 怪力和尚は、とっさに「それだ!」と思いました。そのとき、和尚はもう風よりも速く本堂の屋根を走っていました。あと一つ残されていた鬼瓦は、和尚によってブーンととばされていました。電光石火、目にもとまらぬ早業というのは、このときの和尚を指していうのでしょうか。
 鬼瓦は、勢いよく塔の二階の当たりに命中したらしく、すさまじい火花が散りました。と同時に、そこに巻き付いていた龍の尾が、刀でそいだようにぶつりと切れ、帝立寺の広い庭一面にのたうち回りました。龍は、崩れるように五重塔からずるずるとずり落ちましたが、それでもランランと目を光らせ、塔の屋根に爪を立てて、真っ赤な口をいっぱいに開いて幾たびとなく吠えたてました。
 「今だ!」怪力和尚は、手当たり次第に本堂の屋根瓦をはいで龍に投げつけました。
 やがて、さすがの龍もついに力つきて、」長々とその死体を横たえました。怪力和尚は、悪龍ながら死んでしまっては恨みもないといって、鬼の死骸を住みかであった密林の井kに沈め、懇ろに弔ったあとで、再びこのようなことのないようにしようと池を埋め立て、野原にしてしまいました。池ノ原という地名はこうして生まれたと伝えられています。

 帝立寺は、このことがあってから、龍を退治した寺だというので退龍寺と書かれるようになりました。
 それから後、平和なふるさとの幾年かが過ぎていきました。人々は退龍寺と書くのもよいけれど、もともとこの寺は天皇の命令によって建てられた寺であるから、「帝」という寺をなくしたことはおそれおおいことではないかといって、今度は帝龍寺と記すことにしました。
 この帝龍寺に戦国時代、幸尊という学のある偉い和尚さんがいて、当時の乱れた世にさまよう人々をずいぶん救ったといわれています。聖武天皇勅願の飛騨国分寺の住職までにもなった養慶も救われた人の一人であります。
 すぐれた歴史と素晴らしい伝説を併せ持つ帝龍寺こそ、本当に血の通った人間性を通して仏の真理を説き続けてきた寺院ということができるでしょう。