富山の民話
ムカデガ淵(ふち)

 岩木の下に、神通川が深くうずを巻き、たいへん気味の悪い淵(ふち)がありました。
 ここには長さが10メートルちかくもある大百足(むかで)が住むといわれ、村人や漁師から恐れられていました。
 ある年、中神通の川原覚浄という人が、話を聞いて興味をもち、この淵(ふち)に網を投げましたが、何故か引いても引いても網は上がりません。「さては例の大百足か」と、大声で「やい怪物、姿を見せて網を返せ!」とどなりますと、淵(ふち)の東崖下に天女のように美しい女が現われてニッコリと笑いかけました。
 覚浄は、この光景に思わず舟端をたたいて笑いますと、女の姿はかき消すように消え去り、網は簡単にあがりました。

寺津の河童(かっぱ)

 流れの激しいことで有名な神通川にあって、寺津の淵の水は、いつもぶきみに静まり返っておりました。
 昔、この寺津の村にひとりのおじいさんが住んでいました。ある日、仕事を終えたおじいさんが川原で馬の身体を洗い、さて帰ろうと手綱をぐいと引くと川の中から河童が引き寄せられてきました。水から頭を出したまま馬をねらっていたため皿の水が乾き、力がなくなっていたのでしょう。おじいさんはその河童を連れて帰り、こらしめに台所の柱に鎖でしばっておきました。
 その晩、台所で水を飲んだおばあさんは、「おまえはバカなやっちゃ」とひしゃくでコツンと河童の頭をたたきました。すると、ひしゃくに残っていた水が頭の皿に入り力を得た河童は、鎖を切って逃げてしまいました。しかし、この河童は、恩を知っていたらしく毎年のように季節の魚を台所の掛け木に掛けていきました。そこでおばあさんが欲を張りもっと魚を掛けられるようにと鉄のカギをたくさんつけたところ、前に鉄の鎖でしばられたことのある河童は、それを見るとびっくりして二度と現れなくなったということです。

姉倉比売命(あねくらひめのみこと)
 舟倉にある姉倉比売(あねくらひめ)神社には、神代の頃舟倉山に住んでおられた、姉倉比売命という女神をおまつりしています。
 同じ頃、能登姫(のとひめ)という悪い女神がいまして、姉倉姫の夫伊須流伎比古(いするぎひこ)を、心を乱す薬を使って自分の味方になるようにしました。これを知った姉倉姫は、そのあやまちを責めましたが、能登姫たちは聞こうともしません。とうとう、相方あらんかぎりの石を投げ合うという壮絶な戦さになりました。
 この戦さが出雲(いずも)にも伝わり、大国主命(おおくにぬしのみこと)がやって来てやめるようにいいましたが全くおさまりません。いらいらした命は罰として姉倉姫に呉羽の小竹野でハタを織って人々に教えるよう命じました。一方、伊須流伎比古と能登姫は、殺されたそうです。
 このおかげで、戦場になった舟倉は、今も4キロ四方にわたって石がないと言われています
葛原のとりで
 正11年、織田信長の家臣だった富山城主佐々成政が、城生城主斉藤浄丹を攻めました。
 成政は、以前に失敗していますから慎重にまず井栗谷に本陣をおき、葛原にとりでをつくり城をかこむように幾度となく総攻撃をかけ攻めたてました。そして連日連夜の激しい戦闘の末、とうとう城生城を落としました。
 さて、とりで近くにある井戸山は、佐々軍が飲料水を得た場所ですが、激戦の場となりここで両軍のたくさんの兵がうらみをのんで戦死しました。
 このため、その血が今もしみこんでおり、この清水を午前10時以前に飲むと、腹痛がおこると伝えられています。

弘法(こうぼう)の水

 弘法大師にまつわる話は全国に数多く残されていますが、大沢野にもいくつかあります。その中のひとつで、大師が小糸の村を通りかかられた時の話です。
 大師は一軒の家に立ち寄られ、水を一杯おくれと申されました。この家のおばあさんは親切な人で、姿はみすぼらしいがどこか仏様のようにありがたく見える大師に出すには、家にある水ではもったいないと思い、六町(約600メートル)程奥の谷間まで水を汲みに行き、大師にその水を差し出しました。大師は時間がかかった訳を知ると大変喜ばれ、柄杓に残った水をその家の庭に注ぎながら何かを唱えられました。すると不思議なことに、清水がこんこんと湧き出しました。
 この泉は今も村人の難儀を救う「命の水」と呼ばれ、村でただ一つの泉として残っています。

弁山(べんやま)
 むかしむかし、上大久保と中大久保の間に、小高い丘がありました。(今は山の跡形もありませんが)その東側には池もあり、子供たちのとても良い遊び場になっていました。
 ある日、一人の子守女が、赤子を連れて、遊んでいました。あまりにも遊びに夢中になっていたため、狼が忍びよって赤子におそいかかろうとしているのに気付きませんでした。はっと気付き、大声で救いを求めたのですが、あたりに人影はなく、とっさに自分の身をもって赤子をかばい、自ら狼の牙にかかってしまいました。村の人達がかけつけ、子守女をおこしたときには、すでに死んでしまっていましたが、腹の下の赤子は無事だったということです。
 人々は、その子守女のけなげなおこないをたたえて、この山を「女中山(ベイヤマ)」といっていましたが、いつの日かなまって「弁山(ベンヤマ)」になったといわれています。

とばされたずきん

むかし、ある村に源次というわるい男がおった。あるとき源次は、となりの家のもんが、立山まいりにいったるすをねらって、ぬすみにはいた。
ところが、ごっそりぬすんで、さて、にげようとしたとき、きゅうに風がふいてきて、かぶっていたずきんをとばされてしもうた。

「ちぇっ。なんちゅうこった。」
舌をうってくやしがったが、ずきんは、どこをさがしても見あたらん。しかたがなく、そのままにげかえったと。
 やがて、立山へいっておったとなりの人がかえってきた。そして、かえるなり源次の家へやってきて、
「地獄谷で、おまえがまきをせおったまま、焦熱地獄(ぬすみやころしをした人が落ちるといわれる火炎地獄)におちていくのを見た。たすけようとしたが、おまえは、ずるずるとおちていってしまい、このずきんだけが、のこったんや。」
いうて、ずきんをさしだした。それは、まぎれもなく、源次のぬすみをはたらいたときに、風にとばされて、なくしたずきんやった。あまりのおそろしさに、源次は、ふかくこうかいして、そののちは善人になったという。飛騨(いまの岐阜県)の清見村に、いまものこっておると。

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