ムカデガ淵(ふち) |
岩木の下に、神通川が深くうずを巻き、たいへん気味の悪い淵(ふち)がありました。 |
寺津の河童(かっぱ) |
流れの激しいことで有名な神通川にあって、寺津の淵の水は、いつもぶきみに静まり返っておりました。 |
姉倉比売命(あねくらひめのみこと) |
舟倉にある姉倉比売(あねくらひめ)神社には、神代の頃舟倉山に住んでおられた、姉倉比売命という女神をおまつりしています。 同じ頃、能登姫(のとひめ)という悪い女神がいまして、姉倉姫の夫伊須流伎比古(いするぎひこ)を、心を乱す薬を使って自分の味方になるようにしました。これを知った姉倉姫は、そのあやまちを責めましたが、能登姫たちは聞こうともしません。とうとう、相方あらんかぎりの石を投げ合うという壮絶な戦さになりました。 この戦さが出雲(いずも)にも伝わり、大国主命(おおくにぬしのみこと)がやって来てやめるようにいいましたが全くおさまりません。いらいらした命は罰として姉倉姫に呉羽の小竹野でハタを織って人々に教えるよう命じました。一方、伊須流伎比古と能登姫は、殺されたそうです。 このおかげで、戦場になった舟倉は、今も4キロ四方にわたって石がないと言われています。 |
葛原のとりで |
天正11年、織田信長の家臣だった富山城主佐々成政が、城生城主斉藤浄丹を攻めました。 成政は、以前に失敗していますから慎重にまず井栗谷に本陣をおき、葛原にとりでをつくり城をかこむように幾度となく総攻撃をかけ攻めたてました。そして連日連夜の激しい戦闘の末、とうとう城生城を落としました。 さて、とりで近くにある井戸山は、佐々軍が飲料水を得た場所ですが、激戦の場となりここで両軍のたくさんの兵がうらみをのんで戦死しました。 このため、その血が今もしみこんでおり、この清水を午前10時以前に飲むと、腹痛がおこると伝えられています。 |
弘法(こうぼう)の水 |
弘法大師にまつわる話は全国に数多く残されていますが、大沢野にもいくつかあります。その中のひとつで、大師が小糸の村を通りかかられた時の話です。 |
弁山(べんやま) |
むかしむかし、上大久保と中大久保の間に、小高い丘がありました。(今は山の跡形もありませんが)その東側には池もあり、子供たちのとても良い遊び場になっていました。 ある日、一人の子守女が、赤子を連れて、遊んでいました。あまりにも遊びに夢中になっていたため、狼が忍びよって赤子におそいかかろうとしているのに気付きませんでした。はっと気付き、大声で救いを求めたのですが、あたりに人影はなく、とっさに自分の身をもって赤子をかばい、自ら狼の牙にかかってしまいました。村の人達がかけつけ、子守女をおこしたときには、すでに死んでしまっていましたが、腹の下の赤子は無事だったということです。 人々は、その子守女のけなげなおこないをたたえて、この山を「女中山(ベイヤマ)」といっていましたが、いつの日かなまって「弁山(ベンヤマ)」になったといわれています。 |
とばされたずきん |
むかし、ある村に源次というわるい男がおった。あるとき源次は、となりの家のもんが、立山まいりにいったるすをねらって、ぬすみにはいた。 |