武将たちと立山
佐々成政
さっさ・なりまさ

 佐々成政といえば、さらさら越えを忘れるわけにはいきません。
 佐々成政は、天正9(1581)年、織田信長の命により富山城に入城、越中を支配しました。本能寺の変(天正10・1582年)の後、成政は信長の子、織田信雄(おだ・のぶかつ)を主君と仰ぎ、羽柴秀吉(はしば・ひでよし、後の豊臣秀吉)と敵対します。成政は信長の忠臣でしたので、織田家を乗っ取るような秀吉の行動が許せなかったのでしょう。そこで成政は、同じく秀吉と敵対していた徳川家康と結び、秀吉に対抗します。ところが主君と仰いでいた信雄が、突如秀吉と和睦してしまいます。これを知った家康は秀吉と敵対する理由がなくなり、和睦を結びました。それでも成政は「織田家再興」を諦めませんでした。家康にもう一度立ち上がってもらう説得をしようと思ったのです。ところが家康の居城・浜松へ出るためのルートには、問題が多すぎました。越中の隣国、東の越後は上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)、西の加賀は前田利家という秀吉方の大名が支配していたのです。唯一、南の飛騨は家康に味方していた姉小路(三木)頼綱(あねがこうじ・よりつな)が支配していましたが、その南・美濃は秀吉の領地だったのでどこを通っても家康に接触することは出来ません。そこで成政は、厳冬の雪深い北アルプス・立山連峰を超え、家康の支配地・信州に出て浜松の家康のもとへ行く方法を思いついたのです。
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 成政も、代々の越中の領主と同様に、立山・立山信仰を手厚く保護したようです。天正11(1583)年8月「立山の儀、神代よりその陰(かくれ)無し」と立山の神威をたたえ、岩峅寺へ450俵寄進し、堂社の建立、祭礼の復興を促しました。その450俵のうち66俵を芦峅寺に与え、姥堂の燈明銭にあてさせた記録があります。天正12(1584)年11月には立山仲宮寺(芦峅寺)衆徒・社人宛てに手紙を書き、姥尊の本地仏として大日如来の名をあげ、これに対する奉仕(お供えなど)を油断せず、心を込めて祈念するように命じました。この手紙の冒頭には「姥堂の威光、承り届け候」とあり、姥尊の霊威に深く感銘した様子がうかがえます。この天正12年11月は、成政がさらさら越えの壮挙を敢行する直前です。この決死の冬山突破には、芦峅の山男たちが協力したといわれています。それをなくしては冬の立山越えは不可能でした。
 成政のさらさら越えについて疑問視する声もあります。しかし、徳川家康の側近・松平家忠の日記・『家忠日記』天正12年12月の項に「越中之佐々蔵助(内蔵助成政)、浜松へこし候」と明記されています。さらに『武功夜話』にも、烈々たる気迫がみなぎった成政の様子が描かれています。まぎれもない事実なのです。そういった疑問の声もあがるほど立山の冬は厳しく、雪深いのです。現実に近年でも冬山の遭難は後が絶ちません。

 そんな決死の覚悟で説得に行った成政ですが、家康・信雄の考えを覆すことは出来ず、失意のうちに再び立山を越えて富山に戻りました。
 歴史の流れを変えることは出来ませんでしたが、立山の歴史には、確実に大きな足跡を残しました。

 その後成政は秀吉の大軍の前に降伏し、越中の大部分を召し上げられ、領地は越中国新川郡のみになり越中を去りました。大坂に出仕する身となり、秀吉の御伽衆(お噺衆・おとぎしゅう)の一員となっていましたが、秀吉の九州出兵に従軍し、九州平定後、そのまま肥後一国(現在の熊本県)を与えられました。成政は肥後における(太閤検地による)「五畿内同前」の支配体制を確立するために、また、朝鮮出兵のための兵站基地としての役割を担うために検地を実施しました。しかし国人衆は反発し一揆を起こします。一揆は鎮圧されましたが、成政は喧嘩両成敗の意味もあり切腹させられてしまいます。
 
 現在の成政像は残念ながら、あまり良いものではありません。しかし、そのイメージは成政の後に越中を治めた前田氏が、成政を慕う領民があまりにも多かったため、わざと成政を暴虐残忍の暗主にしたてあげ統治しやすくした、ということが真相のようです。
以上参考:遠藤和子氏 「佐々成政<悲運の知将の実像>」
加賀藩
前田家
 天正15(1587)年、肥後へ転封された成政に代わり、越中全土を治めたのは前田氏でした。江戸時代の加賀藩は今の石川県だけではなく、富山県全部を含めた地域でした(その後、越中国婦負郡10万石を富山藩として分藩)。
 初代藩主前田利家は天正16(1588)年、芦峅寺仲宮寺ににあてて姥堂に100俵の寄進状、岩峅寺立山寺にあてて立山権現に100俵の寄進状を与えました。立山信仰の保護という点では、成政の政策をそのまま受け継いだことになります。
 慶長7(1602)年、2代藩主前田利長(まえだ・としなが)も、父・利家と同じく芦峅・岩峅両寺に対して、各100俵の寄進状を与えています。利長の妻・永(玉泉院)はことのほか立山に関心を寄せ、元和3(1617)年、廃絶していた室堂を再興しました。また、岩峅寺にも石の狛犬1対を寄進し、今でも社頭にすえられています。
 雄山頂上の峯本社は、破損するごとに加賀藩の手によって修理・改築され、藩政時代を通じて10回の造営の記録が残っています。峯本社だけではなく、室堂や芦峅・岩峅の主要な建造物の改築も加賀藩によって行われました。
 立山を含めた黒部奥山一帯は国境山地として重視し、お締り山と名づけて一般の立ち入りを厳禁し、毎年、奥山廻り役を派遣し見廻らせました。一般人が立山禅定道(決められた立山登拝の道)以外を歩くことはご法度でした。(このことからも、当時越中と信州の間道として立山は使われていたことがわかります。佐々成政もこのルートをさらさら越えとして使ったのかもしれません。)
 藩はまた、雷鳥の保護にも特別に留意し、慶安元(1648)年芦峅寺に対し、立山の雷鳥、花、松、硫黄などを盗むものがないか見廻りをせよ、と厳しく保護を命じています。
 このようにして、加賀藩の大きな庇護のもと、立山は江戸時代を過ごして行くのです。
以上参考:福江充氏「立山の歴史と文化 アルペンナチュラリスト講座」
廣瀬誠氏「立山のいぶき」
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