立山の歴史・立山信仰
立山の
開山伝説
 立山の開山は大宝元(701)年と言われています。2001年に開山1300年を迎えました。
伝説によると、
「文武天皇の大宝元年、越中国司佐伯有若(さえき・ありわか)の子有頼(ありより)が、父の白鷹を借り鷹狩をしたところ、白鷹が飛び去ってしまう。白鷹を追って山奥深く入った有頼 。もう少しで捕まえそうになったが、突然大熊が襲い掛かり、また逃がしてしまう。怒った有頼は矢を放つ。胸を射抜かれた大熊は血を流しながらもさらに山奥へと逃げ込む。追う有頼。そして大熊は洞窟(玉殿の岩屋たまどののいわや)へと逃げ込む。有頼も追って洞窟に入ったが、大熊の姿はない。そこで有頼が見たものは、胸に矢傷を受け血を流す阿弥陀如来であった。阿弥陀如来は有頼に出家して立山を開くようにお告げになった。感泣した有頼は下山して名を慈興(じこう)と改め、立山大権現の大宮を建立するなど、一生を立山開山に奉げたという。」
立山の祭神  大伴家持が詠んだ『立山賦』からもわかるように、越中の人々は立山を古来から、山そのものがカミとして、またはカミの住む山として遥拝していたようです。
江戸時代には、雄山山頂の峰本社の本尊を阿弥陀如来と不動明王とし、各々の垂迹をイザナギノミコト(伊弉諾尊)、タヂカラオノミコト(手力雄命)としました。このような本地垂迹思想(※)に基づき、立山のカミを立山権現と称します。
※本地垂迹…本来は仏であるが、その仏が日本の国に現れたときには、かり(権)の姿として現れたのがカミであるという説。
立山の
地獄と浄土
 地獄というと、どのような光景を思い浮かべますか?また、地獄はどこにあると思いますか?
 日本では仏教が伝わる前から、人が死ぬとその霊魂は山中へ行き、そこで死霊から祖霊に清められ、さらに子孫のまつりを受けると次第に浄化され山のカミになると考えられていました(山中他界観念)。一方仏教では、地獄は人間が住む世界の地下に重層的に奥深く存在すると説いてきました。仏教が伝来したあと、日本ではこれらの考えが融合し、地獄の内容は仏教の理論に基づきましたが、その場所については、自らの伝統的土着的な考えに基づいて山中に設定したのです。
 その際、立山は火山活動の影響で荒れ果てた独特の景観があり(現在の地獄谷、みくりが池、血の池など)、これらの非日常的な空間が地獄に見立てられ、立山地獄の信仰が生まれたと思われます。
 平安時代後期の『今昔物語』にも、「其の谷に百千の出湯有り、深き穴の中よリ湧出づ、巌を以って穴を覆へるに、湯荒く涌て巌の辺より涌出るに大なる巌動く、熱気満て人近付きて見るに極めて恐し、亦其の原の奥の方に大なる火の柱有り、常に焼けて燃ゆ」と、すざましい景観を描き「日本国の人、罪を造て多く此の立山の地獄に墜つ」と伝える。立山の地獄が広く認知されていたことがわかります。
 こうした立山地獄に対する信仰は末法思想や浄土教の受容・発達過程の中で捉えられ、はじめは観音信仰や、地蔵信仰が主体でしたが、次第に阿弥陀信仰へと移っていきました。南北朝時代の『神道集』は、立山の浄土について立山十二所権現、すなわち十二光仏の止住する山とし、さらにその本地を阿弥陀如来としました。
姥尊信仰  鎌倉時代後期から室町時代にかけて、立山山麓・芦峅では神仏習合の姥(うば)尊が造られ、立山信仰の中心として信仰されるようになりました。
1466年越中守護代神保長誠(じんぼ・ながのぶ)が、年貢銭を寄進したのをはじめとして、土肥将真(どい・まさざね)、寺嶋誠世(てらしま・のぶよ)といった在地領主も田地を寄進しています。また天正年間(いわゆる戦国時代)にも、佐々成政(さっさ・まりまさ)が二度にわたって燈明銭を、前田利家(まえだ・としいえ)も100俵の地を寄進しています。
 江戸時代には姥堂を中核として、毎年秋の彼岸の中日に芦峅寺一山衆徒によって布橋灌頂会(ぬのばしがんじょうえ)の儀式が行われ、極楽往生を願う女性の参詣者で賑わいました。
※姥尊(うばそん)。「うば」という字、立山では本来は「おんなへん」につくりの部分は「田が三つ」という字を書きます。
江戸時代  江戸時代、立山信仰は岩峅(いわくら)寺と芦峅(あしくら)寺の衆徒によって維持されました。岩峅寺村は立山寺、芦峅寺村は中宮寺を中心にして加賀藩の加護のもとに、それぞれ24坊と38坊の宿坊集落を形成しました。両村とも民事・農政上は郡(こおり)奉行、宗教上は寺社奉行の支配下に置かれました。岩峅寺は山役銭の徴収や室堂・山中諸堂の修復、登拝道の整備を主な役割とし、加賀・能登・越中を中心とした布教活動を行いました。一方の芦峅寺は全国的な布教活動に力を入れ、農閑期に檀那場(だんなば)に赴き、配札や立山曼荼羅の絵解きによって立山禅定登山や、女性には布橋灌頂会への参加を勧誘しました。
立山禅定登山者は、岩峅、芦峅で宿泊し、翌朝早く山中に入り、室堂までは中語に案内され登山したが、三山めぐりや地獄めぐりは宿坊の衆徒に案内されて登ったようです。
廃仏毀釈  明治時代に入ると神仏分離により、岩峅寺・芦峅寺でも廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れました。1869年、立山権現の呼称を廃止し、雄山神社となり、数多くの仏像やお堂が取り払われ、立山信仰そのものが否定される事態になりました。
現 代  越中では、男子は立山登拝を済ませて、初めて一人前と認められる習慣がありました。成人男性への一種の「通過儀礼」と言えます。
 また、女人禁制も解かれ近代登山の山として、また観光の山として多くの人が登っています。
以上参考:福江充氏 「立山の歴史と文化 アルペンナチュラリスト講座」より
廣瀬誠氏「立山のいぶき」
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