東薬寺略縁起
東薬寺は大宝元年(701年今から約1300年前)に、
行基菩薩が北陸巡礼された際、霊夢に「仏縁勝地の霊場なり」と感じられ、
文武天皇の勅許を得て、鎮護国家、救世利人の祈願道場として勅願寺に定められた。
そこへ一丈六尺(4m80cm、丈六仏)の薬師如来像を本尊として安置する。
その後、北陸七ヶ国の管領、桃井播磨守直常公が
東薬寺の不動明王の霊験を受け、寺領を与え小塔、鎮守社、末社に至るまで大伽藍を建立し
僧坊が軒を並べて常に、大般若経を転読し様々な寺院・道場の規範となるような大寺であった。
後の世、戦国時代を迎え、天正年間に越後上杉勢の攻めにより兵火にあい、
さしもの大伽藍もたちまちに焼失した。
この時、薬師如来は焼失してしまったが、紅蓮の炎の中に一塊の火の玉、東南方遙かに飛び去る。
村人、奇異に感じるもその消息知らず。宝暦年間に東薬寺を復興する時、
仙人、弥平太が奥地、双子山で作業をしていると、東方に一筋の光明を見つける。
その光をたどって行くと、岩屋に薬師如来さまがおわしまして
「吾れは東薬寺の薬師如来の胎内仏なり、吾れを東薬寺へ連れ帰り、
またこの岩屋に別にわが像を安置し礼拝供養すれば、悪病、悪疫、稲作害虫、退散なさしめん。」
とお告げになられ、仙人弥平太、背中に背負い東薬寺へと連れ帰る。
以来、今に至るも東薬寺歴代住職が、毎年八月八日には滝又岩屋薬師如来に参拝する事が恒例になっている。
以上が東薬寺に伝えられている、縁起です。
詳細については以下に、小僧が説明していきます。
*東薬寺、寺号について
「東薬寺略縁起」に見受けられるように東薬寺は
元来、薬師如来さまをご本尊としていた事がわかりますね。
越後の上杉勢の火攻めに逢い、東薬寺の薬師如来さまが、
火の玉となって東の滝又の岩屋へ避難されたのは、
薬師如来さまが正式には「東方薬師瑠璃光如来」と言うお名前なのです。
そのお名前の通りに東方へ避難されたのです。
その薬師如来さまのお名前そのままを頂いて、「東薬寺」となります。
*医王山、山号について
また、山号の医王山とは「医王=医薬のキング=薬師如来」
「山=浄土(仏様の住まわれる所。たとえば阿弥陀如来=極楽浄土)」
医王山は薬師如来さまの浄土となります。
(富山県の人には薬師如来さまの極楽と言った方が分かりやすいですね。)
つまり、東薬寺は薬師如来さまのお浄土と言うわけです。
*立山信仰と東薬寺
東薬寺の奥地には「小佐波御前山」があり、
その向こうには薬師岳、立山連峰が連なっています。
この「おざなみごぜんやま」は、「御前」立山の御前の意味と考えると、
小僧はこの小佐波御前山上で(頂上部分がとても平らなんです。)
東薬寺及びその関係者が、何らかの宗教儀式を営んだ可能性が有ると考えています。
むろん、古くから薬師如来さまをおまつりしてきた東薬寺と薬師岳との関係性、も無視できません。
東薬寺と薬師岳、立山信仰、小佐波御前山、については、
学術的には証拠となるような、資料はありませんが無関係とは、言い切れないと思います。
*ご本尊様
現在、東薬寺で本尊様と誇称しているのは「牧野不動尊」不動明王様です。
薬師岳が立山にあり、東薬寺の近くにあるし、縁起、伝説、から言っても
薬師如来様がご本尊のはずなのです。
「なぜ薬師如来さまが本尊のままでないの?」
と当然、思われるでしょうが、
永い歴史の中で、何らかの理由があったのでしょう。
今現在、どういった理由に依るものなのかは、確たる資料もありません。
いくつか推理はできますが、
修験者、武士が不動明王を強く信奉していたから、
桃井直常が不動明王へ特別に帰依していたからと言う理由が一番近いかと思われます。
元来は、大寺(たくさんのお堂からなる、とても大きなお寺)であった東薬寺の
金堂(本堂)の本尊さまが薬師如来さま。
護摩堂(不動堂)の本尊さまが不動明王さまであったと、思われます。
*仙人弥平太
滝又から東薬寺へ薬師如来さまを連れ帰った、仙人弥平太は
牧野の、川向こうの集落、楜ケ原(くるみがはら)に住んでいたと伝えられています。
今も8月8日の滝又薬師法会の時は、楜ケ原の方が主催で行われ、
富山市内等に引っ越された方もこの日には里帰りされてお参り頂いています。
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